いの熱いコーヒーを味わっていてくれるよう、ということだった。
二人の女は、なかなか出て来なかった。一体、奥で、なにをしているのであろうかと、仏が立ち上ったとき、やっと声がして、二人の女は出て来た。
「あなた、これよ。このバッグを二つ、持ってくださらない。あたしは、この小さいのを二つ持ちますわ」
仏は、そこへ並べられたバッグを見たが、一向|見覚《みおぼ》えがないものだった。記憶の消滅の情《なさ》けなさ。
二人は、下宿を出た。
駅の方へ歩きながら、仏が、ふと思い出したようにいった。
「ねえ、アン。おれは懐中《かいちゅう》無一文なんだがねえ、リバプールの英蘭《イングランド》銀行支店で、預金帳から金を引出していく暇はないだろうか」
「否《ノウ》。そんなことをしていれば、列車に乗り遅れてしまいます」
「じゃあ、一列車遅らせてはどうだ」
「それは駄目。あの列車に、ぜひとも乗らなくては。だって、いつまたドイツ機の空襲で、列車が停ってしまうか分らないんですもの」
そういったアンの顔は、仏が始めて見る真剣な顔付であった。空襲を要慎《ようじん》してということだったけれど、それにしても、それほど深刻な顔をしなくてもいいだろうにと、仏は思ったことである。
ロンドン行の切符をアンが買った。そのとき切符売場で駅員とアンの間になにかごたごた押問答の場面があったが、アンが旅券みたいなものを示し、そして仏天青《フォー・テンチン》を呼びつけて、彼の顔を駅員に見せることによって、二枚の切符は、ようやく窓から差し出されたのであった。
「いやに、うるさいのですね」
と、仏が、鉄格子《てつごうし》の中を覗きこみながら、いうと、
「おう、若い中国の方。今朝から、特別の警戒なんですよ。桟橋附近で、夫婦連れのスパイを見かけたが、一人は海へ飛びこむし、他の一人は行方不明になるし、それで、この騒ぎですよ」
「それは、どこの国のスパイですかね」
「もちろん、ドイツ側のスパイですよ」
「ああ、ドイツですか。けしからんですなあ。しっかり、気をつけていてください」
アンが、しきりに服を引張るので、仏は、そのくらいにして、出札口を離れたが、そのとき、駅員の前に、「要監視人《ようかんしにん》通告書」という紙が載《の》っていて、そこに、「間諜《かんちょう》フン大尉の件」という見出しのついていたのを、目敏《めざと》く読
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