なったのか、妙に、なにもかも、忘れてしまうんでね」
仏は弁解らしくいった。そして胸の中はうれしさで一杯になった。
(アンは、やっぱり、おれの妻だった。おれは幸運にも、自分の家庭へ戻ることが出来たのだ)
しかし彼は、アンを心配させないために、過去の記憶のなくなったことを、なるべく急には言うまいと思った。そのうちに、何かの拍子《ひょうし》で、恰《あたか》も緞帳《どんちょう》が切って落されたように、一ぺんに自分の過去が思い出されるかもしれないと、そこにはかない望みを残したのであった。
6
リベッツの宿というのは、海岸にあった。
アンが、自動車を、リベッツの宿につけたとき、空襲警報は、はじめて解除となった。アンは、仏《フォー》の手をとらんばかりにして、宿の中へ誘った。下宿の老婦人は、アンを見ると、驚愕《きょうがく》に近い表情になって、彼女のところへ飛んできたが、傍に仏が立っているのに気がつくと、俄《にわか》に平静《へいせい》に戻ろうと努力し、
「おや、まあ、これは……」
と、どっちつかずの挨拶《あいさつ》をすれば、アンはそれを途中から引取って、
「おばさま。これ、この通り、夫にうまく行き逢いましたのよ。警官に行手《ゆくて》を拒《はば》まれた時は、どうなるかと思いました。幸いにその途中で夫に逢えたもんですから、こんな幸運て、ちょっとありませんわ」
「まあ、それはそれは、御運のよかったことで……で、すぐロンドンへいらっしゃるでしょう。ねえ、アン」
「え、ええ、そうしましょう。荷物をとりに来たのも、そのためよ」
「午前九時十五分発の列車がいいですわよ」
「そうですか、午前九時十五分発ですね」
「気をつけていらっしゃい。こういうとき、あたしなら十三号車に乗りますわ。こういう時節《じせつ》のわるいときには、わるい番号の車に乗ると反《かえ》って魔よけになるのよ」
「十三号車? ええ、ぜひそうしましょう」
仏は、二人の会話を傍《そば》で聞いていたが、アンが、この下宿のかみさんドロレス夫人を、母親のように信頼しているのを知った。アンは、ドロレス夫人のいうとおり、なんでも従うつもりに見えた。車室まで、かみさんのいったとおりにするなんて、いやらしいほどの信頼ぶりだと、彼は思ったことだった。
二人は、荷物をとるために、奥へ入っていった。仏だけは、そこに置かれた一ぱ
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