なかった。自分の胸の中で、鳴咽《おえつ》するその女が、ただもういじらしくて仕方がなかったし、それに、
(うむ、ひょっとすると、この女は、自分の女房《にょうぼう》であるかもしれない)
と思ったのである。
彼は、女の髪をやさしく撫《な》でてやった。
女は、また更に大きな声をあげて、彼の胸の上で泣きだした。
(……おれは、女房にめぐり合ったんだ。どうも、それに違いない。女房のやつ、おれがもう監獄から出てくるかと思って、今日もこのへんをうろうろしていたんだ。そこへ空襲警報が鳴り響き、この防空壕へとびこんだ。そして神の名を呼んでいると、その前へ、いきなりおれの顔が電灯の光の中に現れた。そこで必死になって、おれの服をもって引き下ろしたのだ。どうも、そうらしい。いや、それに違いない)
彼は、女の髪の上に、そっと唇を押しつけた。
(……おれの女房は、空襲が終ったら、おれを自分の家へ連れていってくれるだろう。そして、おれが知りたいと願っていたおれの過去について、すっかり説明をしてくれるだろう)
彼は、女の背に、手をまわした。
「おう、可愛い私の……」
彼は、その先の言葉につまった。
「私のアン……」
女が、そういった。
「そうだ。可愛い可愛い私のアン。私はもう、どこへもいきはしないよ」
彼は、そういうと、唇をかんだ。頬を、止《と》め度《ど》もなく、熱い涙がほろほろと、滾《こぼ》れ落ちた。
4
仏天青《フォー・テンチン》は、アンと抱きあっていた。
それから暫《しばら》くして、彼は、アンの腰のあたりに、変に硬いものが当るので、ふしぎに思って、そこを見た。
「おや、アン。これはどうしたのかね」
彼は、アンの腰に、丈夫《じょうぶ》な綱《ロープ》がふた巻もしてあるのを発見した。しかもその綱の先は、防空壕の肋《ろく》材の一本に、堅く結んであった。まるで囚人《しゅうじん》をつないであるような有様であった。
「いいのよ、あなた」
「よかないよ。説明をおし。これじゃ、まるで……おや、手も、そうじゃないか」
アンの手首は、いつの間にか綱《ロープ》でしばられていた。
「大丈夫。手首はぬけるのよ」
といって、アンは、綱のくくり目から、手首をぬいてみせた。しかし腰の紐《ひも》までは、ぬいてみせなかった。もちろん、それは抜けないように二重に縛ってあった。
「アン。なに
前へ
次へ
全42ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング