廻れ右をしようかと思ったが、あとからまた押してくる人で、それは不可能だった。
 婦人の金切声《かなきりごえ》と、子供の泣き叫ぶ声とで、壕の中は、さらに息ぐるしかった。天井は、角材を格子《こうし》に組んであったが、非常に低かった。換気《かんき》もよろしくない。監獄の防空室にくらべると、たいへん劣《おと》る。
「おい、立ち停《どま》らんで、もっと奥へはいってくれ」
「そう押しても、駄目だよ。前には、子供がいるんだ」
「おい、煙草の火を消せ。消さないと、つまみ出すぞ」
 人気《にんき》は荒かった。彼は押されているうちに斜面《しゃめん》を滑《すべ》って、避難の市民の頭のうえに墜《お》ちそうになった。
 すると、下から、彼の服を引張った者がある。
「おい、乱暴するな。墜ちるじゃないか」
 彼は、眩《まぶ》しい電灯の下にあったので、顔をしかめて、下を見た。
「あなたァ、ここよ。早く早く」
「え」
 見ると、見も知らぬ若い白人の女が、しきりに、彼の中国服の裾《すそ》を引張《ひっぱ》っているのであった。
「誰です、君は。人違《ひとちが》いでしょう」
 彼は、そう叫びかえしたが、その女には、すこしも聞こえないらしい。
「あなたァ、そっちへいっちゃ駄目よ。いいから、そこを滑《すべ》り下《お》りて……」
 そのときには、彼の躯《からだ》は、早くも斜面の端《はし》からはみ出し、ずるずると下に落ちていった。
「あなたァ、どうなさったかと思っていたわ。まあ、よかった。おお神さま」
 見ると女は、口先だけで、神の名を称《とな》え、そしてその眼は、仏天青の眼に、じっと注《そそ》がれていた。
「君は……」
 といおうとすると、
「あなたァ……」
 といって、いきなり女の両の腕が、仏《フォー》の首《くび》にまきついた。後は、何もいうことが出来なかった。彼の口は、女の唇で、ぴたりと蓋をされてしまったのである。彼は、気が遠くなる想《おも》いで、躯の自由をうしなってしまった。
 ただそのとき覚えているのは、やや、しばらくして、女が、はげしい息づかいとともに、彼の耳に、いくども囁《ささや》いた言葉だった。
「……なんにも言わないで……なんにも考えないで……そしてもうあたしを捨てていかないでよゥ」
 彼は、名状《めいじょう》すべからざる困惑《こんわく》を感じた。しかし遂《つい》に、彼は女の躯から手を放そうとはし
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