うど》そのとき、入口に置いた棕櫚《しゅろ》の葉蔭から、一人の男がこっちを覗《のぞ》いたように思った。チラと見たばかりで誰とも最初は思い出せなかったが、そのうち君江のところへ来た初顔の女が、
「オーさんよ」
 と小さい声で云ったのが聞えた。それで丘田医師が、このゴールデン・バットへ繰《く》りこんで来たことに気がついた。


     6


 どうしたというものか、それからは毎晩のように帆村が私のところへやってきた。やってきては、毎晩はんこ[#「はんこ」に傍点]で押したように、私を誘ってゴールデン・バットへ出掛けた。
 そんなことが、およそ一週間も続いたのちのことだった。その晩も帆村と私とは、ゴールデン・バットのボックスに身体を埋《う》めていた。その日はいつもとは違い、カフェの中にはなんとなく変な空気が漂《ただよ》っていることに気がついたが、しかしその夜のうちに、あの愛慾の大殿堂《だいでんどう》ゴールデン・バットがピタリと大戸を閉じてしまうなどとは夢にも気がつかなかった。実にこれが有名なる「ゴールデン・バット事件」の当夜《とうや》なのだった。
「どうも解らないことがあるのだがネ」と神ならぬ私は呑気《のんき》な口調で帆村に呼びかけていた。「君の話では、金という男は、ここの女たちに、劇薬を浸《し》みこませた煙草を与えてモルヒネ中毒者にしていたということだが、金が死んでしまった今日《こんにち》も、彼女たちは別に中毒者らしい顔もしないで平気でいるのは、ちょっと訳が解らないネ」
「なるほど。それでどうだというのだ」
「どうだといって、彼女たちは金からモルヒネ剤の供給を断たれたわけだから、大なり小なり、中毒症状をあらわして狂暴になったり、痙攣《けいれん》が起ったりする筈だと思うんだ。ところが案外みんな平気なのはどういうわけだろうか」
「いや、君の探偵眼も近頃大いに発達してきたのに敬服する」と帆村は真面目な顔付になっていった。「しかしその回答は、まだ僕の口からは出来ないのだ。まあ、もう少し待っていたまえ」
 そこへ珍らしく私達の番のチェリーが、洋酒の盃をもって来た。彼女は黙々《もくもく》として、ウイスキーを私達の前に並べたが、
「あの、ちょっと、顔を貸して下さらない」と私に言った。
「えッ」
「ちょっと話があるのよオ」
 私は顔が赭《あか》くなった。私の眼の前には、チェリーの真白なムチムチ肥えた露《あら》わな二の腕が、それ自身一つの生物《せいぶつ》のように蠢動《しゅんどう》していた。
「いいから、行ってこいよ」帆村は云った。
「じゃ、ちょっと――」
 私は心臓をはずませて、席を立った。彼女の悩《なや》ましい体臭《たいしゅう》の影にぴったりとついて行くと、チェリーは楽手《がくしゅ》のいないピアノの側へつれていった。
「用て、なんだい」私は訊《き》いた。
「解ってるでしょう――」そういうチェリーの顔には、何となく険悪《けんあく》な気がみなぎっているのを発見した。
「あんた、早く返さないと悪いわよ」
 彼女は私の思いがけないことを云った。
「早く返せ。な、なにをだい?」
「白っぱくれるなんて、男らしくないわよ」
「なッなんだって?」
「こうなりゃハッキリ云ったげるわよ。――あんた先《せん》に丘田さんのところで、盗んでいったものがあるでしょう」
「なにを云うんだ」私は駭《おどろ》きと怒《いか》りとで思わず大声になった。
「ほら、やましいから、赤くなったじゃないの。悪いことは云わないから、これから直《す》ぐ帰って、あの薬をあたしンところへ持っていらっしゃい。いいこと。あたしから丘田さんにうまく謝《あやま》って置いてあげますからネ」
 薬といわれて、私はすこし気がついた。
「よし、考えとくよ」
「考えとくじゃないわよ。早くしないと困るのよ」
「まアいいよ。すこし考えさせろよ」
「あんたお金のことを云っているのネ。すこし位のお金なら、あたしからあげてもいいわ」
「莫迦《ばか》なことを……」
 そういって私は席に戻った。帆村はホープの煙を濛々《もうもう》と立ち昇らせながら、眼をクルクルさせていた。
「どうした」
 そこで私は思いがけないチェリーの云いがかりについて、彼に報告した。そのあとに私はつけたして云った。
「薬を盗んだというが、それなら君に云いそうなものじゃないか」
「うん。そりゃ君のことさ。だから僕があのとき袖を引いて注意をしてやったじゃないか」
 そこで私は、帆村が袖を引張ったことを思いだした。そうだ、あのとき私は、銀玉に見惚《みと》れていた。横に細い溝《みぞ》のある銀玉だった。ああ、そうすると……あの銀玉に薬が入っていたのだ。
 その瞬間だった。バラバラと私達の卓子《テーブル》に飛びついて来た人間があった。
「やい泥棒」いきなり卓子越《テーブルご》しに顔をつきだした其《そ》の男は、なんと丘田医師だったのである。丘田医師には違いないが、日頃の彼の温良なる風貌はなく、髪は逆立ち、顔面は蒼白《そうはく》となり、眼は血走り、ヌッとつき出した細い腕はワナワナと慄《ふる》えていた。
「さあ返せ、返せといったら返さないか」私は腰をあげた。
「畜生、黙っているのは、返さない心算《つもり》だな。よオし、殺しちまうぞ」
 そう呶鳴《どな》ると丘田医師は忽《たちま》ち身を翻《ひるがえ》して、傍《そば》の棕櫚《しゅろ》の鉢植《はちうえ》に手をかけた。彼の細腕は、五十キロもあろうと思われるその重い鉢植を軽々ともちあげて、頭上にふりかぶろうという気勢を示した。
「危い。逃げろッ」
 と帆村が私の腕を引張った。私はパッと身をかわすと、夢中になって駆けだした。なんだか背後《うしろ》で、ガーンという物の壊《こわ》れる物凄い音を聞いたが、多分それは丘田医師の手を放れた鉢植が粉々に砕《くだ》け散《ち》った音だろうと思う。
     *   *   *
 帆村と私とは、やっと流し円タクを拾ってその中に転げこんだ。
「いやどうも駭《おどろ》いた――」私はまだ慄《ふる》えが停らなかった。
「あれでいいんだ」と帆村は呑気《のんき》なことを云った。「あれで筋書どおりに搬《はこ》んだわけだ」
「筋書って、君はあのような場面を予期していたのかネ」と私は呆《あき》れて問いかえした。
「そうなんだが、あんなに巧《うま》くゆくとは思っていなかった。ここで一つ君に頭を下げて置かねばならぬことがあるが……」と彼はちょっと語《ことば》を切って「君がいつか金《きん》青年の殺人犯人のことで、『犯人は気が変だ。それが馬鹿力を出して金を殺し、その直後に正気《しょうき》に立ちかえって逃走した』というような意味のことを云ったが、あれに対して僕は男らしく頭を下げるよ」
「というと……」
「あの丘田医師の大変な力のことを云っているのだ。気が変になったればこそ、あのような力が出る」
「すると金青年に重い砲丸を擲《な》げつけて重傷を負わせたのは、丘田医師だったのかい」
「もうすこしすれば、誰が犯人か、自然に解《わか》る筈《はず》だよ」
 真犯人のことを知ったのは、それから三日のちのことだった。ゴールデン・バットのチェリー――それが真犯人だった。
 これは一部の人に大変|奇異《きい》な思いをいだかせた。何故ならば、どうしてチェリーのように脆弱《かよわ》い女性が、あの重い砲丸を金青年の肩の上に擲《な》げつけることが出来たろうかという疑問が第一。それから彼女に真逆《まさか》金を殺すだけの十分な動機が見つかりそうもないという疑問がその第二だった。
 しかしそれは、彼女達の告白によって、すべてが明《あきら》かになった。私は今、彼女達という複数の言葉を使ったが、あのゴールデン・バットの女たちは、あの晩の騒ぎをキッカケとして、去っていったのだった。彼女たちは、洋酒を盆の上に載せる代りに、みんなが白いベッドの上に載せられていた。それは某内科の病室に収容せられた風景だった。
 チェリーはベッドの上から、切れ切れに一切を予審判事《よしんはんじ》に告白した。
 金が重傷をうけたあの頃は、チェリーが君江よりも一歩進んだ、金の寵愛《ちょうあい》を得ているときだった。金は前にも云ったように、魔薬《まやく》の入った煙草でもって女たちを自由にしていた。その資本は、金が秘蔵していた一袋のヘロインというモルヒネ剤だった。
 ところがこの大切な資本が、或る日金の部屋から見えなくなったのだ。それは大事件だった。命に関する出来ごとだった。彼は気が変になったように部屋の中を探したが、どうしても出て来なかった。そのうちにだんだんと中毒症状が出てきたので彼はかねて懸《かか》りつけの丘田医師をよんで、投薬《とうやく》を頼んだ。それから以来というものは、一日に何回となく丘田医師のもとに哀訴《あいそ》を繰りかえさねばならなかった。ただ然《しか》し中毒者のことであるから、服薬したあとの数時間は、普通と異《ことな》らぬ爽快な気分で暮らすことが出来た。
 しかしここに困ったことが出来た。それは金が予《かね》て魔薬《まやく》入りのゴールデン・バットをバラ撒《ま》いていた女たちに与えるものがなくなったことだった。女たちの中でも、一番|恐《おそ》ろしい苦悩に襲《おそ》われたものは、実にチェリーだった。チェリーはその頃、金の寵愛《ちょうあい》を集めていただけに、服薬量が大変多量にのぼっていた。だからチェリーは金を訪ねて、ヘロインをせびったのだった。
 しかし金にとって、もういくらも貯《たくわ》えのないヘロイン入りのゴールデン・バットだった。ひとに与えれば、忽ち自分が地獄のような苦悶に転げまわらねばならない。だから最愛の情人であるチェリーの切なる乞《こ》いではあったが、バットを与えることを断然《だんぜん》拒《こば》んだわけだった。
 チェリーは拒絶《きょぜつ》されると、もう我慢しきれなくなった。どうしてもあの薬を手に入れなければならなかった。暴力に訴えても、たとえ殺人をしても……。彼女は全く気が変になって、あの重い砲丸を頭上に持ち上げた。金はこの思いがけない危険に室内を逃げ廻っているうちに、とうとうチェリーのために鉄の砲丸を擲《な》げつけられてしまった。そしてあのような悲惨な最期《さいご》を遂《と》げたのだった。
 さてそれから、チェリーは室内を葡《は》いまわって、魔薬《まやく》の入った煙草を探した。遂《つい》に煙草の隠匿《いんとく》場所がわかって、八本の特製のゴールデン・バットを手に入れた。彼女はそこで貪《むさぼ》るように、あの煙草を喫ったのだった。喫っているうちに、次第に薬の効目《ききめ》はあらわれた、彼女は平衡《へいこう》な心を取りかえしたのだった。彼女がソッと現場《げんじょう》を逃げだしたのは、それからだった。――(海原力三《うなばらりきぞう》が殺人の目的で忍びこんだときは、既に金が重傷を負っていた後《のち》のことだった)
 チェリーは外へ逃げだしたが、そこで深夜の街を歩いていた丘田医師に掴《つかま》ったのだった。掴るというよりも、むしろ助けられたといった方が当っていた。丘田はチェリーの唯《ただ》ならぬ様子からそれと察して、幸い独身者の気楽な自分の家へ連れてかえったのだ。その後、二人の仲が如何に発展したか、それは云うまでもないことである。
 ところで金のところにあったヘロインの袋は一体誰が盗んだのか。これはいまだに明瞭《めいりょう》ではないのであるが、帆村の説によると、既に金のところへ度々呼ばれて行った丘田医師が、金の隙《すき》をみて秘かに奪いとったものではなかろうかと云っている。あの種の中毒患者にはそんな隙などはザラにあることに違いなかった。
 丘田医師は、盗みとった魔薬を悪用し、金と同じ手を用いて、カフェ・ゴールデンバットに君臨《くんりん》したのだった。幸い医者だった彼は、その後の中毒女たちに投薬することに非常に巧《たく》みだった。だから女たちは、中毒者のようには見えなかったのだ。しかし最後に来て、運命の悪戯《いたずら》というか、天罰というか、丘田医師が魔薬を失い、遂
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