らなかった。唯一つ、背の低い私にはちょっと手の届きかねる高い棚の上に、直径が七八センチもあろうと思われる大きい銀玉《ぎんだま》が載っていた、その銀玉は、黒縮緬《くろちりめん》らしい厚い座布団《ざぶとん》を敷いて鈍《にぶ》い光を放っていた。どうやら煙草の錫箔《すずはく》を丹念に溜《た》めて、それを丸めて作りあげたものらしかった。いくら煙草ずきの人でも、これだけの大きさの銀玉を作るには少くとも三四年は懸《かか》るだろうと思われた。
 私はあとで丘田医師に訊《たず》ねてみようと思って、なおもその銀玉を見つめていたのであるが、そのとき妙なものに気がついた。それは銀玉の上から三分の二ぐらいのところに、横に一本細い線が入っていることだった。よくよく見るとそれは線というよりも切れ目のように思われた。
(オヤオヤ、この銀玉はインチキかな)
 そう思って私は手を伸《のば》しかけたとき、いきなり私の洋服をグッと引張ったものがある。はッと思って見廻わすと、引張ったのは、紛《まぎ》れもなく帆村だった。丘田医師は、脚立《きゃたつ》の上にあがって、毒劇薬の壜をセッセと下していて、それは余りに遠方に居たから、私の洋服を引張ったのは帆村の外には無い。
 ――とにかく私は気がついて、銀玉を見ることを停《や》めてしまった。
「もう、その辺でいいですよ」帆村は丘田医師に声をかけた。
「もういいですか」
「そこで鳥渡《ちょっと》お尋ねいたしますが」といって帆村は鉛筆で数字を書き入れていた紙片を取上げて丘田氏に云った。「パントポンの現在高が、すこし合いませんネ」
 パントポンというのはモルヒネ剤であるが精製した上等のものだった。
「そんなことは無いでしょう。よく調べて下さい」
「いや確かに合いませんよ。警察の方に報告されている野間薬局売りの数量と合わんですよ」
「そりゃ変ですネ。少いということは無い筈《はず》なんですがネ」丘田医師の眼は自信あり気に光っていた。
「そうです。少くはないのです。少いのはまだ始末がいいと思うんですが、現在高が非常に多すぎる……」
「多すぎるのは、いいじゃないですか」
「困るんですよ」と帆村はパントポンの壜に一眄《いちべつ》を送りながら云った。「なにか他のモルヒネ剤で間に合わしたために、パントポンの数量が残っているのじゃありませんか。例えばヘロインとか……」
「ヘロインですって、ヘロインみたいな粗悪なやつは私のところでは使っていませんよ」
「ではこの儘《まま》にして置きましょう。もう外に無いでしょうネ」
「ありませんとも」そういった丘田医師の顔は、心持ち蒼《あお》かった。
「では一つ、投薬簿《とうやくぼ》の方を見せて下さいませんか」
「投薬簿ですか。そうです、あれは向うの室にあるから取ってきましょう」
 そういって丘田医師は立った、帆村は私に跟《つ》いてゆくようにと、目で合図をした。
 丘田医師は不機嫌に診察室へ飛びこんだ。そしてチェッと舌打《したうち》をしたが、そのとき後からついていった私が扉《ドア》に当ってガタリと音を立てたものだから、彼は吃驚《びっくり》して私の方を振りかえった。その面は、明かに不安の色が濃く浮んでいた。
 投薬簿は直ぐ見付かった。調薬室へ引返してみると、帆村は前とはすこしも違わぬ位置で、また別の劇薬の目方を測っていた。
「さアこれが投薬簿です。――」
 帆村は帳面をとりあげると、念入りに一|頁《ページ》一頁と見ていった。丘田医師は次第に苛々《いらいら》している様子だった。そのうちに帆村は、投薬簿をパタリと閉じた。
「どうも有難うございました」
「もういいのですか」
「ええ、もう用は済みました。この位で引揚げさしていただきましょう」
 帆村はうしろを向いて、そこにあった大理石の手洗に手を差出して、水道の栓をひねった。冷たそうな水がジャーッと帆村の手に懸った。


     5


 外へ出ると、もう街はとっぷり暮れていた。快《こころよ》い微風が、どこからともなく追駈けてきて、頤《あご》のあたりを擽《くすぐ》るように撫でていった。
 私たちは橋の上に来た。その橋を渡れば、すぐカフェ・ゴールデンバットの入口があった。
 このとき帆村は、ツカツカと橋の欄干《らんかん》の方へ近づいていった。そこで彼はポケットを探っているようであったが、キャラメルの函《はこ》二つ位の大きさの白い紙包みをとり出した。どうするのかと見ていると、呀《あ》ッという間もなく、その紙包みは帆村の手を離れて、川の水面に落ちていった。帆村はパタパタと両方の掌《てのひら》を打ち合わせて、なにかをしきりに払っていた。
 その夜のカフェ・ゴールデン・バットは宵《よい》の口だというのに、もう大入満員だった。私達はやっと片隅に小さい卓子《テーブル》を見付けることが出来た。
「ああら、いらっしゃい」
 そういって通りすぎたのは、チェリーだった。カクテルの盃を高くささげて、急ぎ足に通りすぎた。背後《うしろ》から眺めるとワン・ピースが、はちきれそうにひきしまって、彼女の肉体があらわに透《す》いて見えそうだった。
「ありゃチェリーさんだネ」
「うん」
「暫く見ない間に、大変肉づきが発達したじゃないか。まるで別人のようだ」
「そうだネ」私は或ることを思い浮かべて、胸の締めつけられるのを覚えた。
「まあ、いらっしゃいませ」そこへ君江がやって来た。「先刻《さっき》はどうも……」
 君江が帆村にそういって挨拶をした。オヤオヤと思って私は帆村の顔を見た。
「む――」帆村は白っぱくれて、ホープの煙幕《えんまく》の蔭に隠れていた。
 注文をきいて、君江が向うへゆくのを待ちかねて私は口を切った。
「今のはどういう訳なんだ、『先刻はどうも』というのは」
 帆村はニヤリと笑って、灰皿に短くなったホープを突きこんだ。
「君は覚えているだろう」と彼は声を墜《お》として云った。「あの金《きん》という惨死《ざんし》青年が或る中毒に罹《かか》っていたことを」
「ひどいモルヒネ中毒だというんだろう」
「そうだ。屍体解剖の結果、それは十分に証明されたが、しかしあのモルヒネ中毒は彼の直接死因でないことが証明された」
 帆村は、そこで又一本のホープを摘《つま》みあげた。
「ところが、あの金が如何なる手段でモヒを用いていたか、それについては一向解らなかったのだ。僕はそれを解くのに大分苦心をして、とうとう神戸へ出掛けるようなことになったのだ。しかし僕は遂《つい》にその手段を見つけることが出来た。発見のヒントは、金の部屋を探したときに掴《つか》んだものだった。それは灰皿の内容物からだった」
「うむ」
「あのとき、君も知っているだろうが、灰皿の中には、燐寸《マッチ》の燃え屑と、煙草の灰ばかりがあって、煙草の吸殻が一つも見当らなかったことを。あれが最初のヒントなのだ。およそ吸殻《すいがら》のない吸い方をするということは、普通の吸い方ではない。それは愛煙家のうちでも、最も特異な吸い方なのだ。火のついた巻煙草がだんだんと短くなってお仕舞いになると脂《やに》くさくなる。これは決して美味《おいし》いところではない。それを大事に最後まで吸いつくすところに、僕は疑問を挟《はさ》んだのだ。――そこで僕は、或る一つの仮定を置いた。仮定を置いただけでは十分ではない。僕はその仮定を確めるために、神戸の波止場《はとば》で仲仕《なかし》を働きながら、不思議な秘密の楽しみをもっている人達の中を探しまわったのだ。そして遂に私の仮定が、或る程度まで正鵠《せいこく》を射ていることを確めた。しかしその上で、尚《なお》実際的証人を得る必要があったのだ。それで僕は急遽《きゅうきょ》東京へ引返した。そして第一番に逢って話をしたのがあの君江なのだ」
 帆村はそこでまたホープを甘《うま》そうに喫《す》った。
「君江というと、彼女は金の情婦《じょうふ》として有名だった時代がある。私は一本|釘《くぎ》をさして置いた上で尋《たず》ねてみた。『君はあのうまい煙草の作り方を、死んだ金から教わったのだろう』と」
「なに、うまい煙草というと?」
「そうなのだ。甘《うま》い煙草のことを訊《き》かれて彼女はハッと顔色をかえたが、もう仕方がないのだ。先にさして置いた私の釘は、どうしても彼女の告白を期待していいことになっていたのだ。『ええ、そうですわ』と遂《つい》に君江は答えた。そこで私は云った。『煙草にあの白い粉薬《こなぐすり》を載せて火を点《つ》ける。それでいいのだろう』君江は黙って肯《うなず》いた」
「そりゃ、どういうわけだい」
「なーに、これはあの劇薬《げきやく》を煙草に浸《し》ませて喫う方法なのだよ。鴉片《あへん》中毒者はモヒ剤だけを吸うが、われわれの場合は、ほんの僅かのモヒ剤を煙草に交《ま》ぜて吸うのだよ」
「その方法は?」
「それは詳《くわ》しく云うことを憚《はばか》るがネ、とにかくその薬の入った巻煙草――あの場合ではゴールデン・バットだが、そのバットの切口《きりぐち》のところは、一度火を点《つ》けて直ぐ消したようになっているのだ。金のやつは、こうした仕掛けのある煙草を吸っていた」
「そりゃ、うまいのだろうか」
「モルヒネ剤特有の蠱惑《こわく》にみちた快味《かいみ》があるというわけさ。ところが金という男は頭がよかったと見えて、それを自分だけに止めず、ゴールデン・バットの女たちに秘《ひそ》かに喫わせたのだ。女たちは、真逆《まさか》そんな仕掛けのある煙草とは知らず、つい喫ってしまったが、大変いい気持になれた。それでうかうか何本も貰って喫っているうちに、とうとうモヒ中毒に懸《かか》ってしまった。さアそうなると、今度はどうしても喫《の》まなければ苦しくてならない。仕舞《しま》いには、あの仕掛けのある煙草のことを感づいたのだろうが、そのときはどうにもならないところへ達していた。女たちは金に殺到《さっとう》して、そのゴールデン・バットを強要した。金としては思う壺《つぼ》だったろう。バット一本の懸け引きで、気に入った女たちを自由に奔弄《ほんろう》していったのだ」
「そうだったか――」私は深い嘆息《たんそく》と共に、あの死んだ金が素晴らしくもてていた其の頃の情景をハッキリ思い出した。
「これは君江から、すっかり訊《き》いてしまったことなのだよ。君江が一時、狂暴になったことがあったネ。あれは金が寵愛《ちょうあい》をチェリーに移し始めた頃だったんだ。君江はそれを愚図愚図《ぐずぐず》云ったものだから、金は怒《おこ》って、それじゃお前には今までのように薬をやらないぞといって、薬の制限で君江を黙らせようとしたのだ。君江は他の女よりすこし分量を多く貰っていた。それは金が彼女を強烈に興奮させて置いて、自分の慾情を唆《そそ》ろうとしたためだった。ところがその分量を減らされたために、君江はああして金に喰ってかかったのだ」
「ああ、するともしや……」と私は口に出しかけたが、気をかえて、「一体あのモヒ剤はどこから金が手に入れていたのかい」
「それが問題だったが、これも神戸で調べあげた。あれは某方面から密輸入をしたヘロインだったんだ。金はそれを手に入れたときに、あの用い方も一緒に教わったものらしい」
「では、相当貯蔵していたんだネ。でも金の部屋から、そんなものが出て来た話を聞かなかったじゃないか」
「そうだ。そこに面白い問題があるんだよ」と帆村はいかにも愉快そうに微笑《ほほえ》んだ。「いまにだんだん判ってくるから」
 そこへ君江がビールを搬《はこ》んできた。
「どうも済みません。今夜は御覧のとおりの大入《おおいり》で、うまく廻らないんですよ。まあどうでしょう。こんなに忙しいことは、このゴールデン・バットが出来て初めてのことなのよ」そういって君江は、白い指を顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》にあてた。
「君たちのサービスが良すぎるせいだろう」と帆村は揶揄《からか》った。
「どうですか――」と、君江はビール壜をとりあげて、帆村の洋盃《コップ》に白い泡を注《つ》ぎこんだ。
 丁度《ちょ
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