た。
「煙草について、まだ発見したことがある。それは床の上に転がっている三十二本のうち、汚れないのが二十五本で、残りの七本は踏みつけられたものと見え、ペチャンコになっていた。それを調べてみると、ハッキリ靴の裏型がついているから、これは靴で踏みつけられたものと見てよい。しかし靴は、普通ならばあの部屋の入口で脱いで上るようになっている。しかるにこの踏みつけられた七本のバットから考えると、誰か靴を入口で脱がないで、その儘《まま》、上へ上った者がいたという説明になるわけだ」
「それが例の短刀をもった男じゃないのかネ」
「そうかも知れない。そうかも知れないが、何しろバットの上につけられた靴の跡のことだ。小さい面積のことだから、ハッキリどんな形の、どんな寸法の靴だとまでは云えないのだ」
「なるほど」
「そこで僕は、君に一つ質問があるが」と帆村はまた一本のホープに火を点けて云ったのである。「事件の最初、君がアパートの裏口へ廻ったときに、露地《ろじ》に何か人影のようなものを見懸《みか》けたといったが、あれは男だったか、それとも女だったか、解らなかったかネ」
「さあ、どっちとも解らないネ」
「解らない。解らなければ、それでもいいとして、僕はあの部屋に事件の前後に居たものと思われるもう一人の人物を知っているのだ」
「それは誰のことだい」
「それは女である。しかも若い女である」と帆村は仰々《ぎょうぎょう》しく云った。
「どうしてそれが判ったのかい」
「それはベッドの上に枕があったが、探してみるとベッドの下にもう一つの枕が転げていて、これには婦人の毛髪がついていた。それだけではない。卓子《テーブル》の上に半開きになったコンパクトが発見された。白い粉がその卓子の上に滾《こぼ》れていた。粉の形と、コンパクトをどけてみた跡の形とから、コンパクトの主があれを卓子の上に置いたのは、相当|生々《なまなま》しい時間の出来ごとだと推定される。――それでさっき僕のした質問の目的が解ったことだろうと思うが、或いは君が、その若い女を見かけやしなかったのかと考えたのだ」
「待ってくれ、そう云えば……」
 とそこで私は、丘田医師の家で、腹《はら》たち紛《まぎ》れに観察した女靴の跡のことや、丘田医師のことについて報告した。
「もしや金の部屋に寝ていたらしい若い女というのは、丘田氏のところにあった靴跡の女ではないのかネ」
「それは独断《どくだん》すぎると思うネ。しかし丘田氏のところにいた女が、洋装をしていることが判ったのはいいことだ」
「しかし君の云う隣りの室に寝ていた若い女は、直接犯行に関係があるのかい」
「そこに実は迷っている」と帆村は煙草をスパスパ性急《せいきゅう》に吸った。「その女が犯人らしいところもあると思う。そいつは踏みつけられたゴールデン・バットから考える。女はあのベッドの上に、金と寝ていた位だ。だから靴は脱いでいたものと思う。僕には意味が解らないが、状況から云って女は兇行後、あのバットを箱から出して撒《ま》いたのだ。だから注意をしてバットを踏まずに外に出ることができた。そのあとで短刀をもった男が闖入《ちんにゅう》したが、バットが滾《こぼ》れていることには気付かないもんだから、踏みつけてしまったものと考えられる」
「しかしそれは、あの短刀の男が、箱から出したとしても理屈がつくじゃないか」
「それは別に構わない。あの男は元々怪しい節《ふし》があるのだから、煙草の上の嫌疑が加わっても捜索には大して困らないのだ。なぜかといえば、あの砲丸を金の肩に投げつけるだけの力は、あの男には十分にあると認められるし、それからまた現にあの部屋から出てきたのを見られている。しかし犯人が若い女の方だとすると、煙草は可也《かなり》重要な証拠になると思う。金が目醒《めざ》めている間には、あんなに煙草を撒き散すことは出来ない。男は相当抵抗の末重傷を加えられたと認められるから、そうなるとバットが踏みつけられることなしに満足に転がっている筈がない。そうかと云って男がベッドに睡っている間にあの煙草を撒いたのでもない。其《それ》は男がベッドから遠く離れたところで重傷しているので解る。ベッド以外に男が睡っていられるところなんてあるものじゃない。どうしてもあの煙草は、男に兇行を加えた上で撒いたものに違いないとなるじゃないか。もう一つ砲丸を擲《な》げることは、どの若い女にも出来るという絶対の芸当ではないのだ。それとも君は、脆弱《かよわ》い女性にあの砲丸を相手の肩へ投《な》げつけることが出来る場合を想像できるかネ」
「さあそれは、まず出来ないと思うネ。その女が気が変にでもなって、馬鹿力というのを出すのでも無ければネ」
「気が変に? 気が変だとすれば、あの場をあんなに巧《たく》みに逃げられるだろうか」
「ないこともないぞ」と私は負けるのが厭《いや》であるから叫んだ。「こういう場合だ、気が変になった女が、金に重傷を負わした。途端に癒《なお》ったとすると……」
「もう止《よ》そう。はッはッはッ」と、帆村は呆《あき》れ顔《がお》に笑い出した。
「帆村君、ちょっと来て下さらんか」
 室の外から、大江山捜査課長の呼ぶ声がした。どうやら隣りの調べも片《かた》がついたものらしかった。


     4


 金《きん》青年殺害事件は案外|呆気《あっけ》なく処理されてしまった。官辺《かんぺん》では、帆村が捕縛《ほばく》した例の男を犯人として判定してしまった。
 ここに意外だったことは、あの犯人という男が、海原力三《うなばらりきぞう》その人だったことだ。私もあの後、係官の前へ彼が引張りだされたとき初めてそれと気が付いて駭《おどろ》いてしまったわけだった。
 海原力三は最初のうちは猛烈に頑張《がんば》って、犯人でないと云い張った。しかし後に至って遂に係官の指摘したとおり、一切の犯行を認めたということであった。
 犯行の動機は、カフェ・ゴールデン・バットで金のために女を奪われたことを極度に憤慨《ふんがい》したためだった。彼の抱《いだ》いていった薄刃《うすば》の短刀に血を衂《ちぬ》らず、あの重い砲丸を投げつけて目的を達したことは、後《のち》に捕縛されたとしても、短刀をまだ使っていないという点で、犯行を否定するつもりだったという。それを最初から指摘したところの検事は、大変鼻を高くしていた。
 かくて事件は表面的には解決したが、私としてはお察しのとおり、いろいろの疑問が不可解のまま解決されていないので、大いに不満だった。
 そして思いは帆村の場合も同じであった。その帆村は、海原力三の自白後、随分しばらくやって来なかったが、そうそう、あれは一ヶ月ほども経《た》った後のことだったろうか、莫迦《ばか》にいい機嫌で私の許《もと》へ訪ねてきた。
「オイ何処へ行ってたのか」
 と私は帆村の鬚《ひげ》を剃《そ》ったあとの青々とした顔を見上げて云った。
「うん、東京にいるのが嫌《いや》になって、旅に出ていた。実は神戸《こうべ》の辺をブラブラしていたというわけさ。あっちの方は六甲《ろっこう》といい、有馬《ありま》といい、舞子《まいこ》明石《あかし》といい、全くいいところだネ」
「ほう、そうか。じゃ誘ってくれりゃいいものをサ」
「ところがブラブラしていたとはいいながら、波止場仲仕《はとばなかし》をやっていたんだぜ」
「波止場仲仕を、か?」
 私は直ぐ帆村の意図《いと》が呑みこめた。彼は例の事件について、外国汽船の出入はげしい港で何事かを調べていたというわけなのだろう。
「ときに君は、近頃ゴールデン・バットへ行っているかい」
「行ってはいるがネ」
「行ってはいるがネというところでは、あまり成功していないようだネ。あすこも金だの海原氏が一時に行かなくなって、寂しくなったことだろう」
「その代り大した後任者が詰めかけているよ」
「そりゃ誰のことだい」
「君には解っているのだろう。あの丘田医師のことさ」
「そうか。丘田氏が行っているか。相手はどの女だい」
「それが例のチェリーなんだ。チェリーはこの頃、断然《だんぜん》ナンバー・ワンだよ。君江も居るには居るが昔日《せきじつ》の俤《おもかげ》無《な》しさ。しかし温和《おとな》しくなった。温和しいといえば、あの事件からこっち、不思議に誰も彼もが温和しくなったぞ。あれから思うと金という男は、悪魔のようなところのある素晴らしい天才だったんだナ」
「煙草の方は相変らず皆でやっているかい」
「煙草というと……」と私はあまり唐突《とうとつ》なので直ぐには気がつかなかった。「ああ煙草のことかい。それならカフェ・ゴールデン・バットのことだ。看板どおりのものを忠実に愛用しているさ。うまい宣伝手段もあったもんだネ。そういえば近来、女ども、バットをてんでにケースに入れていてネ、それを揃いも揃ってパイプに挿《はさ》んでプカプカふかすのだ。他にはちょっと見られない風景だネ」
「ふーん、なるほど」そこで帆村は言葉を切って、彼の好きなホープを矢鱈《やたら》にふかし始めた。
「じゃ一つ――」とやがて彼は立ち上って云った。「今晩は久しぶりにバットへ一緒に連れていって貰うとして、その前に君にちょっと附き合ってもらいたいところがあるんだが」
 そこで私は帆村について家を出掛けたのだった。
「最初はここだよ」
 と彼は云って、バットの近所にある野間薬局の店先《みせさき》にずかずか入っていった。
「ちょっと劇薬売買簿《げきやくばいばいぼ》を見せて貰いたいのですがネ。ここに本庁からの命令書がありますが……」
 そういって帆村は店先に腰を下した。顔の青白い主人が奥から出てきて、こっちを向いて叮嚀《ていねい》に挨拶をすると、薬瓶の沢山並んだ部屋から、大きな帳簿をもって来た。帆村がそれを開いたのを見ると、細《こまか》い罫線《けいせん》が沢山引いてあって、そこに細い数字が書き込んであった。
 そこで彼は、丘田医師の欄を拡げて、古い日附のところから、その細い売買数量を丹念に別紙へ筆写しはじめた。
 外へ出ると、帆村はどんどん先に歩いて丘田医師の玄関に立った。案内を乞うと、太ったお手伝いさんが出て来たが、丘田氏は幸い在宅《ざいたく》とのことだった。私は何ヶ月振りかに、その応接室に通った。
「いや中々結構な住居《すまい》だネ」と帆村は大いに興《きょう》がった。そこへ丘田医師があらわれた。
「やあ其《そ》の後《ご》は――」と帆村は馴々《なれなれ》しく挨拶《あいさつ》をした後で直ぐ云った。「今日は本庁の臨時雇《りんじやとい》というところでして、ちょっと先生のところの劇薬の在庫数量を拝見に参りましたが」
「なに劇薬の在庫数量ですか。それは又珍らしい検査ですネ」そういう丘田医師の態度には、すこしの狼狽《ろうばい》のあともなかった。「じゃ向うの調剤室までお出でを願いましょうか」
 帆村は私を促《うなが》して診察室を出た。調剤室はすこし離れた玄関脇にあった。その中へ入ると、プーンと痛そうなくすりの匂いが鼻をうった。三方の高い壁には、十四五段もありそうな棚が重《かさな》っていて、それに大小とりどりの薬壜が、いろいろのレッテルをつけてギッシリ並んでいた。
 劇薬は一隅《いちぐう》に設《もう》けられた戸棚の中に厳重に保管されてあった。丘田医師は鍵を外して、ガラガラとその扉《ドア》を開くと、黒いレッテルや赤いレッテルの貼ってある小形の壜が、気味のわるい圧力を私達の上になげつけた。
 帆村は隅から一つずつ、その小さい壜を下すと、蓋のあるものは蓋をとり、中身を小さい匙《さじ》の上に掬《すく》いとってみたり、天秤《てんびん》の上に白紙を置いてその上に壜の内容全部をとりだして測《はか》ったり、また封の切ってないものは封緘《ふうかん》を綿密に検べたり、なかなか念の入った検《しら》べ方《かた》だった。始めは感心していたものの、私はだんだん飽《あ》きてきた。その退屈さから脱《のが》れるために、何か面白いものでもないかと調剤室の中をズッと見廻した。
 しかし別にこれぞという異《ことな》った品物も見当
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング