うので、女どもはその函をひったくって(それは大抵《たいてい》、あの君江の手に入るのが例だ)、ひったくった女が、子供に菓子を分けるように、朋輩《ほうばい》どもの手に一本ずつ握らせてやる。貰った方では、その金青年お流れの煙草に、パッと火をつけて貪《むさぼ》るように吸って、黄色い声をあげる。
左様《さよう》に豪勢《ごうせい》な(併《しか》し不思議な)人気を背負《しょ》っている金青年の心は一体誰の上にあったかというと、それは君江の上にあった。その君江なる女がまた愉快な女で、金の女房然《にょうぼうぜん》としているかと思えば、身体に暇があると、誰彼なしに愛嬌《あいきょう》をふりまいたり、情《なさ》けを尽したりした。だから君江という女は、金とは又別な意味で、客たちの人気を博していた。
しかし満《みつ》れば虧《か》くるの比喩《ひゆ》に洩《も》れず、先頃から君江の相貌《そうぼう》がすこし変ってきた。金青年に喰ってかかるような狂態《きょうたい》さえ、人目についてきた。それでいて、結局最後に君江は金の機嫌を取り結ぶ――というよりも哀訴《あいそ》することになるのだった。
これに反して金青年の機嫌は、前から見ると少し宛《ずつ》よくなって来たようであった。それは、これまで煙草を欲しがらなかったチェリーが、彼の訓練によって煙草を喫いはじめたからである。
「煙草って、仁丹《じんたん》みたいなものネ」
とチェリーは云った。
「煙草は仁丹みたいなものは、よかったネ」
と金は笑った。女達も釣りこまれてハアハア笑いだしたが、君江だけがどうしたものか、ツと席を立って調理部屋の方へ姿を消したっきり、いつまで経っても出てこなかった。
――そのようなカフェ・ゴールデン・バットの帝王の如き人気者が、見るもむごたらしい兇行《きょうこう》を受けたものだから、私は非常に駭《おどろ》きもしたし、一体誰にやられたのかと、普段から知っている誰彼の顔をあれやこれやと思い巡《めぐ》らした。
丘田医師の家は、すぐ判った。私の長話に大変時間が経過したような気がされることであろうが、アパートを出てからここまで、正味《しょうみ》四五分の時間だった。
電鈴《ベル》を押すと、すぐに人が出て来たのは意外だった。迎えてくれたのは、三十四五の、涼しそうな髭を立てた、見るからに健《すこや》かそうな和服姿の紳士だった。
「先生は?」
「イヤ、僕ですよ」
「あ、そうですか、実は……」
と私は急病人の話をして、ひどい外傷《がいしょう》だから直ぐに来て呉れるように頼んだ。
「伺《うかが》いましょう。直ぐお伴しますから、ちょっと待っていて下さい」
丘田医師は顔を緊張させたようだったが、奥へ入った。
奥へ入って仕度《したく》をしているのであろうが、直ぐという言葉とは違って、なかなか出て来なかった。私はすこし癪《しゃく》にさわりながら、この医師の生活ぶりを見てやるために、玄関の隅々を睨《にら》めまわした。
そのときに、私の注意を惹《ひ》いたものがあった。私も帆村張りに、これでも観察は相当鋭いつもりだ。とにかく第一に私は、そこに脱ぎすてられてあった真新しい男履きの下駄の歯に眼を止めた。桐の厚い真白の歯が、殆んど三分の二以下というものは、生々《なまなま》しい泥で黒々と染まっていた。
それからもう一つ、洋杖《ステッキ》が立てかけてあったが、近くに眼をよせて仔細に観察してみると、象牙《ぞうげ》でできているその石突《いしづ》きのところが同じような生々しい泥で汚れていた。
この夜更《よふ》け、丘田医師が直ぐ玄関へ飛び出して来たところといい、寝ぼけ眼をこすっていたわけでもなく冴《さ》えきった眼をしていたことといい、この下駄の泥、洋杖《ステッキ》の泥は、丘田医師がどんなことをしていたかすこし見当がつくように思った。私は犬のように鼻をクンクン動かして、更に周囲に注意を払った。丘田医師のらしい男履きの下駄が並んでいるところは、セメントで固めた三和土《たたき》だった。それは白い色が浮き上るほど、よく乾燥していた。しかし私は、その男下駄の側方《そくほう》に、ほんの僅かではあるが、少し湿っぽい部分のあるのを発見した。私は前跼《まえかが》みになると、手の甲《こう》をかえして拳《こぶし》の先で三和土の上をあちこち触れてみた。手の甲というものは、冷熱の感覚がたいへん鋭敏である。医師が打診をするときの調子で、そこらあたりを圧《おさ》えてまわった揚句《あげく》、とうとう私は或る物の形を探しあてた。それはなんと、一対の踵《かかと》の高い婦人靴の形だった。靴から押して、足の寸法は二十二センチ位と思われた。
婦人靴の恰好に、三和土の上が湿りを帯びていながら、そこに婦人靴が見当らないということはどういうことを意味するのだろう。と考えたとき、奥の間で何だか女の啜《すす》り泣くような声が一《ひ》と声|二《ふ》た声したような気がした。ハッとして思わず前身を曲げて聞き耳を立てたところへ、手間どった丘田医師が洋服に着換えてヌッと出てきたので、これには私も周章《あわ》てた。
「どうかしましたか」と丘田医師は不機嫌に云った。
「イヤ、誰方《どなた》か患者さんがおありじゃないですか」
「有りませんよ。お手伝いが歯を痛がっているのです」
そういう声は変に硬《こわ》ばっていて、嘘を云っているのだということを証明しているものだった。
私達は外へ出たが、そのときは話題が、例の重傷を負うた金青年の上に移っていた。丘田医師の話では、金青年を知ってもいるし、診察もしたことがあると云っていたが、何病《なにびょう》であるか、それは云わなかった。そして、私の熱心な問いに、時々トンチンカンな返事をしながら、しきりに足を早めるのだった。
3
折角《せっかく》駆けつけて呉れた丘田医師だったけれど、重傷の金《きん》青年は、私が出掛けると間もなく事切れたそうであった。
帆村の案内で、金の屍体のところまで行った医師は、叮嚀《ていねい》に死者へ敬礼をすると、懐中電灯を出して、傷の部分を診察した。
「これは何か鈍器《どんき》でやられたもののようですネ。余程重い鈍器ですナ、頭の方よりも、左肩が随分ひどくやられていますよ。骨がボロボロに砕けています」
「そうでしょう」と帆村は応《こた》えてから、指を側へ向けた。「そこに凶器がありますよ」
「どれです」医師は目をあげた。
「ほら、これですよ」と帆村は二三歩あるいて、床の上に転《ころが》っている一つの大きい毯《まり》のようなものを指した。「外側は御覧のとおり毛糸で編んであります。しかしこれは単なる袋ですよ。中身は鉄の砲丸です、あの競技に使うのと同じですが、非常に重いです。こっちから御覧になると、血の附いているのが見えますよ」
帆村は横の方から凶器の一部を指し示した。
「これは頭部からの出血が染ったのですナ」と医師は云った。
「そうらしいですネ。ときに丘田さん。この死者の致命傷は、やはりこの外傷によるものでしょうか」
「無論それに違いがありませんが、何か御意見でも……」
「意見というほどのものではありませんが、この死者の身体を見ますと、普通の人には見られない特異性があるように思うんです。例えば、中毒症といったようなものがです」
「そうです、そうです」医師はしきりに同感の意を表して云った。
「そう仰有《おっしゃ》れば申上げてしまいますが、実はこの金さんはモルヒネ剤《ざい》の中毒患者ですよ」
「ほほう、貴方のところへ、治療を求めに参りましたか」
「そうなんです。実はこの四五日この方《かた》ですがネ」
「今日も御覧になりましたか」
「今朝|診《み》ましたよ。大分ひどいのです。普通人の極量《きょくりょう》の四倍ぐらいやらないと利かないのですからネ」
「四倍ですか、成程。――」
帆村はケースから一本の巻煙草を引張りだすと、カチリとライターで火をつけた。そしてそれっきり黙りこくって、ただ無闇に紫の煙を吹いた。それは彼がなにか大いに考えるべきものに突き当ったときの習慣だった。
そのとき、大通りの方から、けたたましい自動車の警笛《けいてき》が入り乱れて聞えてきた。それはアパートの前まで来ると、どうやら停った様子だった。間もなく階段をのぼるドヤドヤという物音がして、この事件を聞きつたえた警視庁の係官や判検事の一行が到着したのだった。
「やあー」
「やあ、先程はお報《しら》せを……」
大江山捜査課長は、この事件を帆村から報せて貰《もら》ったことに礼を述べた。
「ときにどうです、被害者の容態は」
「間もなく絶命《ぜつめい》しましたよ。とうとう一言も口を利きませんでした。……午前零時三十五分でしたがネ」
「ほほう、そうですか。これが金という男ですか。やあ、これはひどい」
「現場《げんじょう》はすべて事件直後のとおりにしてありますから」
「いや有難う」
係官たちは、現場がすこしも荒されずに保存されたことについて、帆村に感謝したのだった。帆村は私を促《うなが》して、別室へ移った。これは係官の調べを済ます間、邪魔をしないためだった。
同じような部屋割りの隣室《りんしつ》だった、椅子もないので、私達はベッドの上に腰を下した。ここに暫《しばら》くの時間があるが、この間に帆村とうまく連絡を取っておかねばならない。
「どうだ、犯人は何か喋《しゃべ》ったかい」
と、帆村がホープに火を点《つ》けるのを待って尋ねてみた。
「いや君、あの男はまだ犯人とは決っていないよ」
「だってあの男は、事件の室から出て来たのだろう。そして薄刃《うすば》の短刀をもって君に切り懸ったのじゃないか」
「うん、だがあの短刀にはまだ一滴の血もついていないのだ」
「すると、あの袋入の砲丸でやっつけたのだろう。あの大きな男にはやれそうな手段じゃないか」
「それもまだ解らない」
「君はあの男に、まだそれを訊《き》いてみないのかい」
「うん、あの男とは其《そ》の後《ご》一《ひ》と言《こと》も口を利いていないんだ」
犯人と思われるあの男に、まだ一言半句の訊問《じんもん》もしてないという帆村の言葉に、私は驚いてしまった。
「じゃ今まで君は、一体何をしていたのかネ」
「金の部屋について調べていたのだ」
「そして何を掴《つか》んだのかい」
「いろいろと面白いものを掴んだ。しかし短刀をもった男を犯人と決めるに十分な証拠はまだ集まらない」
「というと、どんなものを」
帆村は嚥《の》みこんだ煙を、喉の奥でコロコロまわしているようだったが、やがて細い煙の糸にして静かに口から吐きだした。それは彼が何か解《と》き難《がた》い謎を発見し、解く前の楽しさに酔っているような場合に限って、必ずやって見せる一つの芸当《げいとう》だった。
「あの部屋で面白いことを見つけたがネ」と帆村はボツボツ語りだした。「それはゴールデン・バットについてなのだ。君はあすこの床の上に、バットがバラバラ滾《こぼ》れているのに気がつかなかったかい」
「そういえば、五六本、転《ころ》がっているようだネ」
「五六本じゃないよ。本当は皆で三十二本もあるんだ。といってこれが、五十本も入るシガレット・ケースから転げ出したのじゃないのだよ。そんなケースなんて一つもあの部屋には無いのだ。あるのはバットの、あのお馴染《なじみ》の空箱《からばこ》だけだった。空箱の数はみんなで四個あったがネ」
「ほほう」
「それからもっと面白いことがある。あの部屋には灰皿が三つもあるんだが、さて其《そ》の灰皿の中に大変な特徴がある」
「というと……」
「灰皿の中に、燐寸《マッチ》の軸と煙草の灰が入っているのに不思議はないが、もう一つ必ず有りそうでいてあの灰皿には見当らないものがあるのだ」と帆村は云ってちょっと口を噤《つぐ》んだ。
「それは何かというと吸殻《すいがら》が一つも転っていないのだ。灰の分量から考えると、すくなくとも十五六個の吸殻《すいがら》がある筈と思うのだが、一個も見当らないのだ。これは大変面白いことだ」
私には何のことだか見当がつかなかっ
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