いのであった。
しばらく、息づまるような沈黙が、金博士の書斎に続いたが、やがて博士は、やおら椅子から立ち上って、室内をこつこつと歩きだした。
「ねえ、ロッセ君」
「はあ」
「わしは君に、一つのヒントを与える。砲弾の速度を、うんと低下させたら、どんなことになるか」
「射程が短縮されます。技術の退歩《たいほ》です。ナンセンスです」
「いや、わしのいっているのは、射程は、うんと長くとるのだ。ただ砲弾の速度を、極《きわ》めて遅くするのだ。そして命中率を、百パーセントに上げることが出来る。それについて、一つ考えてみたまえ。解答が出来たら、また訪ねてきなさい、わしは相談に乗ろうから」
「砲弾の速度を下げるのは、ナンセンスですが……とにかく折角《せっかく》のおすすめですから、一つ考えて来ましょう」
「そうだ。そうしたまえ。それが、うまくいくようなら、あなたの企図《きと》している英国艦隊一挙撃滅戦《えいこくかんたいいっきょげきめつせん》も、うまくいくだろう」
「えっ、なんですって」
「いや、あなたの懐中《かいちゅう》から掏《す》った財布《さいふ》をお返しするよ。これは上から届けて来たものだが、いくら暗号《あんごう》で書いてあるにしても、英艦隊撃滅作戦の書類を中に挟《はさ》んでおくなんて、不注意にも、程がある」
3
外へ出ると、ロッセ氏は、大昂奮《だいこうふん》の面持で、私を捕《とら》えて、放そうとはしなかった。
「ねえ、綿貫《わたぬき》君。われわれは、もっと語ろうではないか。素敵《すてき》なブランデーをのませる家を知っているから、これからそこへ案内しよう」
私は、初めから覚悟をしていたので、ロッセ氏のいうがままに、ついていった。
ホテル・クナンの、しずかな酒場《さかば》の片隅《かたすみ》に、ロッセ氏は、私を連れていった。
「この卓子《テーブル》は、僕の特約の席なんだ。では、お互いの健康を祝《しゅく》して……」
と、ロッセ氏は、琥珀色《こはくいろ》の液体の入ったグラスを高くさしあげて、唇へ持っていった。
「ふう、これでやっと落着いた。金博士も、ひどいところを素破《すっぱ》ぬいて、悦《よろこ》んでいるんだねえ。宿敵艦隊《しゅくてきかんたい》の一件が、あそこで曝露《ばくろ》するとは、思っていなかった」
「まあいいよ。私も、すこし独断《どくだん》だったけれど、あなたを早く、博士に紹介しておいた方がいいと思ったもんだから、黙って連れていったんだ」
「ああ、金博士は、驚異《きょうい》に値《あたい》する人物だ。一体あの人は、中国人かね、それとも日本人かね」
「そのことだよ」
と、私は、グラスの酒を、きゅうとのみ乾《ほ》して、
「一体、金という名前は、中国にもあるし、日本人にもある。それから朝鮮にもあるんだ。もちろん満洲にもあることは、君も知っているだろう。ところで博士は、その中の、どこの人間だか知らないといっている。博士は捨児《すてご》だったんだ。たしかに東洋人にはちがいないが、両親がわからないから、日本人だか中国人だか分らないといっている」
「赤ちゃんのときは、何語を話していたのかね」
「それは広東語《カントンご》だ。もっとも、博士がまだ片言《かたこと》もいえないときに、広東人の金氏が拾い上げて、博士を育てたんだからねえ、赤ちゃんのときに広東語を喋《しゃべ》ったのは、あたり前だ」
「ふしぎな人物だ。そして、あの穴倉《あなぐら》の中でなにをしているのかね」
「博士は、科学者だ。いや、もっと説明語を入れると、国籍のない科学者だ。国籍のない人といっても、ユダヤ系というわけではない。博士は曰《いわ》く、わしは国籍こそ無けれ、あくまで東洋人だといっている」
「で、博士は一体、毎日どんなことをやっているのか」
「博士は、なんでも、気に入った科学をとりあげて、どんどん研究を進めている。今は、宇宙線と重力《じゅうりょく》との関係を研究しているが、今までにも、たくさんの発明がある。その中で、かなり古臭《ふるくさ》くなった発明を、方々の国に売って、莫大《ばくだい》な金を得ている。博士の資産《しさん》は、何百億円だか見当がつかない。が、それよりも驚異に値するのは、博士の自主的研究は独得なる発展を遂《と》げ、今世界中で一等科学の進んだアメリカや、次位《じい》のドイツなどに較《くら》べると、少くとも四五十年先に進んでいると、或る学者が高く評価している。だから、博士は、科学に関しては、世界の人間宝庫《にんげんほうこ》であるともいわれている」
私が最大級の讃辞《さんじ》を博士に捧《ささ》げていると、ロッセ氏は、そうかそうかと、ペルシャ猫《ねこ》のように澄《す》んだ瞳《ひとみ》をくるくるうごかして、しきりに感服《かんぷく》の面持《おももち》だった。
「だ
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