のろのろ砲弾の驚異
――金博士シリーズ・1――
海野十三

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伴《ともな》って、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一等|繁昌《はんじょう》して
−−

     1


 今私は、一人の客人を伴《ともな》って、この上海《シャンハイ》で有名な風変《ふうがわ》りな学者、金博士《きんはかせ》の許へ、案内していくところである。
 博士の住居《すまい》が、どこにあるか、知っている人は、ほんの僅かである。人はよく、博士が南京路《ナンキンろ》の雑鬧《ざっとう》の中を、擦《す》れ切った紫紺色《しこんしょく》の繍子《しゅうし》の服に身体を包み、ひどい猫脊《ねこぜ》を一層丸くして歩いているのを見かけるが、博士の住居を知っている者は、殆んどない。
 金博士の住居は、南京路でも一等値段がやすく、そして一等|繁昌《はんじょう》している馬環《ばかん》という下等な一膳飯屋《いちぜんめしや》の地下にあるのだ。
「さあ、ここがその馬環です。どうです、たいへんな繁昌でしょうが」と私は、客人をふりかえった。「足の踏み入れようもないというのが正《まさ》にこの店のことだが、第一このむーんとする異様な匂いには、慣れないものは大閉口《だいへいこう》で、とたんにむかむかしてくる。だが、とにかくこの中へ入っていかねば、博士に会えないのだから、一時鼻をつまんで、息をしないようにして、私についていらっしゃい。邪魔になるお客さんは、遠慮なく突きとばしてよろしいのである。お客さんは、突きとばされて丼《どんぶり》の中に顔を突込《つっこ》もうと、誰も怒るものはいないであろう。遠慮していれば、いつまでたっても、奥へ通れない。さあ遠慮なく、こうして突きとばすですな。しかし懐中物《かいちゅうもの》だけは要慎《ようじん》したがいいですぞ。突きとばされるのを予《あらかじ》め待っていて、突きとばされると、とたんにこっちの懐中物を失敬する油断のならぬ客がいるからね。あれっ、もうやられたって。ああ待った。もうさわいでも駄目です。一度やられると、たとえやった犯人の顔がわかっていても、二度とお宝《たから》は出て来ないのです。さわぎたてると、どうせろくなことにはならない。また何か盗《と》られます。生命《いのち》などは、盗られたくないでしょうから。
 さあ、ようやく奥へ来ました。ここには小房《しょうぼう》が、いくつか並んでいる。こっちへ来てください。ここへ入りましょう。はいったら入口のカーテンを引きます。さあ、椅子に腰をおかけなさい。そして、両手でこの大きな円卓子《まるテーブル》を、しっかりと抑《おさ》えていてください。しっかりつかまっていないと、あとで舌を噛《か》んだり、ひっくりかえって腰をうったりしますよ。はい、今うごきます。秘密の釦《ボタン》を今押しましたから。そら床もろとも、下《お》りだしたでしょう。しっかり卓子につかまっていなさいといったのは、ここなんだ。そうです、この小室《しょうしつ》全体が、エレベーター仕掛《じかけ》になっているのです。床も天井も壁も、一緒に落ちていくのです。もう今はたいへんなスピードで落ちていますよ。なにしろ、これがエレベーターなら、地階三十階ぐらいに相当する下まで下りるのです。なにしろ、地面から測って、二百メートルもあるそうですからね。
 爆撃《ばくげき》をさけるためですかって。もちろんそれもありましょうが、もう一つの理由は、金博士は宇宙線を極度《きょくど》に避《さ》けて生活していられるのです。あの宇宙線なるものは、二六時中、どんな人間の身体でも、刺《さ》し貫《つらぬ》いているので……」
 話の途中に、エレベーターは停《とま》った。
 私は客人の手をとって、エレベーターを出ると、しばらくは真の闇《やみ》の中の通路を、手さぐりで歩いていった。
 二百メートルばかり歩いたところで、通路は行き停りとなる。そこで私は、今切り取ったばかりのような土の壁を、ととんとんと叩いた。すると、ぎーいと音がして、私たちは眩《まぶ》しい光の中に、放り出された。
 そういう段取《だんどり》になれば、私は間違《まちがい》なく、闇の迷路《めいろ》をうまく選《よ》り通ってきたことになるのである。下手をやれば、いつまでたっても、この光の壁にぶつからないで、しまいには、進むことも戻ることもならず、腹が減って、頭がふらふらになる。
 私は、はげしい目まいをおさえて、しばらく強い光の中に、うつ伏《ぶ》していた。土竜《もぐら》ならずとも、この光線浴《こうせんよく》には参る。これも博士の警戒手段の一つである。
 私は、ようやく光になれて、顔をあげることが出来た。
「やあ金博士。とつぜんでしたが、ロッセ氏を案内して、お邪魔《じゃま》に参《まい》
次へ
全6ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
海野 十三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング