ょうはい》をすませたばかりの別室に雪崩《なだ》れこんだから、武士の名誉にかけてもうどうすることも出来なくなりました。結縁なかばにして、英雄権四郎の出陣!
「なに、いと容易なことじゃ。今夜の御饗応がわりに、直ちに駆けつけて、殺人鬼を打ち取って参り、諸兄の友誼に酬いるで厶ろう。お妙――も楽しみにして、ちょっと待っていやれ」


   呪いの凶刃


 遅い月がヌーッと頭を出して、ほのかに明るい弓町の通りを、風のようにあっちへ抜けこっちへ現れている一つの黒装束!
 それに追い縋《すが》るようにまた別の黒影――それこそ旗本のうちに剣をとらせては及ぶものなしと云われたる花婿権四郎だった。
「ま、待てえ――。殺人鬼!」
 抜き放った大刀を、サッと横に払ったが、怪人はすかさず飛び下って、白刃だけが空しく虚空を流れる――。
「失敗《しま》った。――逃げるな!」
 と、なおも勢いこんで切り込んでゆく。
 すると、その死闘の場より、ものの半町ほども距《へだ》たらぬ軒端に、搦《から》みあった別の二つの人影があった。
「もし、半之丞さまでは御座りませぬか。――ああ、もし、半之丞さま。虎松で厶《こざ》いますよ」
 と、死闘の場を窺《うかが》いながら、半ば失心の体の男の袖を引くと、かの男は邪慳《じゃけん》に袖を払って、スタスタと出る。
「もし、半之丞さま。虎松はどんなにか若様をお探し申して居りやした。もし、半之丞さま、どうなすったのでござりまするか」
 虎松は思いがけない半之丞に巡りあって、殺人鬼と権四郎の果し合いなど問題ではなくなった。半之丞は一向手応えがない、黙として、風のように抜けてゆく。と、それと同じように、黒装束の殺人鬼もヒラリヒラリと大通を向うへ走りゆく。
「権四郎、覚悟しろ!」
 と、軒下なる半之丞と思われる人物は始めて口を開いて、呪わしい言葉を街上の勇士に抛《な》げつけた。その途端に黒装束の怪人の大刀が電光のようにピカリと一閃して、――。
「うわーッ。うーむ――」
 と、魂切《たまげ》る悲鳴が起った。声の主は権四郎だった。白刃をポロリと地上に墜《おと》すと体を絞《しぼ》り手拭《てぬぐい》のようにねじって、両手を代り代りに伸ばしては虚空をつかむと見えたが、やがて、ズドーンと地上に転落した。
「思い知ったか、権四郎!」
 と軒端の半之丞は、遠くから呪いの言葉を吐いた。虎松はこの場の不可解な情景に立ち竦《すく》んだまま。
「大願成就だ。――ここらで引揚げよう」
 と云った半之丞が、何気なく背後をふりかえって、そこで虎松とバッタリ顔を合わせて、ギョッとした。
「おお、虎松。――お前に教えとくが、この後こんな場に必ず出てはならぬぞ。忘れるなッ」
 そういい置くと、半之丞は軒端を出てバラバラと走りだした。すると街上の殺人鬼も何に脅《おび》えたか、同じくバラバラと駆けだした。
「ま、待てッ!」
 と虎松が喚《わめ》きながら、追いかけるのを、
「莫迦《ばか》め! 来るなと申すに。教えたことをすぐ忘れる愚か者めが」
 そういい残して半之丞はドンドン駆け出していった。そのうちに二つの黒影がもつれ合って一つになると見えたが、そのまま次第に夜の闇の中に消えて見えずなった。
 虎松は、それでも後を追い駆けたが、それが無駄であることに気がつくには、余り多くの時間を要しなかった。
「――解せぬ。……」
 と首をふりながら、元の大通りへ帰ってくると、そこには何時押しよせたか、十人あまりの人だかり……。
「あまりにも美事な太刀傷じゃ。人間業ではないのう」
「やはり天狗の仕業じゃ。それに刃向ったは権四郎の不運!」
「そうじゃ、権四郎の不運じゃ。吾々の知ったことではないわ」
 ことの済んだ後で、云い訳をしているのは、酔も何も醒めはてた権四郎の同輩たちだった。前額から切りつけられて、後頭部まで真直な太刀痕が通っているという物凄い切られ様をした権四郎の死骸の上に、同輩の一人がソッと羽織を被せてやった。


   くろがね天狗


 くろがね天狗!
 そう呼ばれるようになった稀代の殺人鬼は、その後も臆面もなく、毎夜のように江戸のあちらこちらに出没した。
 切りかけて、いまだ太刀を引いて逃げおおせた者がなかった。というのは、切りかけたが最後、印判《はん》で捺したように天狗のために切り捨てられるのであった。
「手前手練の早業にてサッと切り込んだので厶《ござ》るが……」と運よく腕一本を失って助かった被害者が病床で述懐した。
「確かに手応えはあったが、ガーンという音と共に、太刀持つ拙者の手がピーンと痺《しび》れて厶る。黒装束の下に、南蛮鉄の一枚|肋《あばら》の鎧《よろい》を着込んでいたようで厶る。御師範といえども、所詮あれでは切れませぬ」
 いよいよ本物のくろがね天狗だとの評判が高くなった
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