くろがね天狗
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)岡引《おかっぴき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一枚|肋《あばら》
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   師走三日


 岡引《おかっぴき》虎松《とらまつ》は、師走《しわす》の三日をことのほか忌《い》み嫌《きら》った。
 師走の三日といえば、一年のうちに、僅か一日しかない日であるのに、虎松にとってはこれほど苦痛な日は、ほかに無かったのであった。そのわけは、旗本の国賀帯刀《くにがたてわき》の前に必ず伺候《しこう》しなければならぬ約束があったからである。
 その年も、まちがいなく師走に入って、三日という日が来た。その頃、この江戸には夜な夜な不可解なる辻斬《つじぎり》が現れて、まるで奉行《ぶぎょう》も与力《よりき》もないもののように大それた殺人をくりかえしてゆく。虎松も岡引の職分として、その辻斬犯人を探すためにたいへん忙しい思いをしていて、一日は愚《おろ》か一刻さえ惜しまれるのであったが、師走の三日ばかりは、何が何としても国賓帯刀の門をくぐらないでは許されなかった。
「おう、虎松か、よう参ったのう。それ、近こう近こう」
 頭に半白《はんぱく》の霜《しも》を戴《いただ》いた帯刀は、胴丸の火鉢の縁《ふち》を撫でまわしながら、招かんばかりに虎松に声をかけた。――虎松はじっと一礼して、二、三尺近よっては平伏《へいふく》をした。
「毎年大儀じゃのう。さて、今年の報告にはなにか確実な手懸りの話でも出るかと、楽しみにいたし居ったぞ。さあ、どうじゃどうじゃ」
 虎松は一旦あげた面を、へへッとまた畳とすれすれに下げた。
「まことに以て面目次第も御座りませぬが、高松半之丞様《たかまつはんのじょうさま》御行方《おんゆくえ》のところは、只今もって相分りませぬような仕儀で……」
「なに、この一年も無駄骨だったと申すか……」
 と、帯刀は暗然として腕を拱《こまね》いた。
 高松半之丞というのは、帯刀から云えば、亡友《ぼうゆう》高松半左衛門の遺児で、同じ旗の本に集っていた若侍、また岡引虎松から云えば、世話になった故主《こしゅ》半左衛門の遺《のこ》した只一人の若様だった。半左衛門亡き後のこととて、虎松は陰になり日向になり、この年若の半之丞を保護してきたつもりなのに、彼はスルリと腋《わき》の下を通りぬけて、どこかへ出奔《しゅっぽん》してしまった。その原因は誰にも分りすぎるほど分っていた。それはかの帯刀の愛娘《まなむすめ》お妙《たえ》に失恋したためだった。その失恋も単純な失恋ではなく、人もあろうに、半之丞と同じ若侍の千田権四郎《せんだごんしろう》という武芸こそ家中第一の達人であるが、蛮勇そのもののようなむくつけき猪武者にお妙を取られた形とあって、センチメンタル派の半之丞は失意と憤懣やるせなく、遂に一夜、どこともなく屋敷を出ていったのであった。
 お妙の父帯刀は、どっちかというと半之丞のような柔弱な人物を好いてはいなかった。しかし亡友の遺児であってみれば捨てて置くことは世間が蒼蠅《うるさ》かった。それで岡引の虎松に命じて探索させたのだがどうも分らない。この上は世間の口の戸を立てるために、毎年半之丞出奔の日が巡《めぐ》ってくると、華やかに虎松を呼びつけて、過去一年間の捜索報告を聞くことにしたが、例の思惑からして、虎松に対しては非常に厳重な尋問態度を改めなかった。さてこそ虎松は、捜索上の不運を慨《なげ》くよりも前に帯刀の辛辣《しんらつ》なる言葉を耳にするのを厭《いや》がっていたのであった。――
「虎松。――」
 と帯刀は言葉を改めて呼んだ。
「へえ、――」
「半之丞が失踪《しっそう》いたして、今日で何ヶ年に相成《あいな》るかの」
「へえ。――丁度満五年でござりますな」
「もう五年と相成るか」と帯刀は憮然《ぶぜん》としてその五ヶ年の年月《としつき》をふりかえっているようであったが、やがておもむろに虎松の方に面を向け直し「こりゃ虎松。五年と申せば永い年月じゃ。これほど探しても分らぬものを、これからまた十年十五年と探すは無駄なことじゃ。今日限りかねて其方に申しつけてあった半之丞捜索の儀は免除してとらせる」
「ははッ。それでは捜索打切……」
「そうじゃ。われわれは充分出来るかぎりの捜索を行ったのじゃ。誰に聞かれても、われわれに手落はないわ」
「御尤《ごもっとも》もなる仰せ……」
 といったが、虎松は肚《はら》の中で、(チェーッこの狸爺《たぬきじじい》め……)と呶鳴《どな》っていた。
「これにてそちも身が軽くなったことじゃろう。この上は御用専心に致せ。――おお、そうじゃ。聞けばこの程より怪しき辻斬がしきりと出没して被害多しとのこと。町方与力同心など多勢《おおぜい》居りて、いかが致し居るのじゃ」

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