来野心というようなものがなかったからなのでしょう。
 今でも私はその郊外の閑居で過ごした夏の夕暮の情景を忘れることが出来ません。
 丘の下は一帯のヴァレイで、人家も極めて少なく、遥かに王子の飛鳥山を望むことが出来ました。なんという寺か忘れましたが、谷の向こう側にあるその寺から夕暮にきこえてくる梵鐘の音は実に美しい響きをそのあたりに伝えました。樹々の間から洩れて来る斜陽、蜩の声、ねぐらにかえる鳥の姿、近くの牧場からきこえてくる山羊の声――私はひとり丘の上に彳立んで、これらの情趣を心ゆくまで味わったのでした。それはたとえ消極的ではあったかも知れませんが、静かな幸福を自分にもたらしてくれたのです。
 その後、約十五、六年の間、私は書斎などということを全部忘却してでもいるようにして暮らしているのです。つまり、生活の土台が安定していないからで、出来るならどんなところにいても自分の思うような仕事が出来ればいいなぞとただ不精な考え方をしているのです。
 由来、日本の社会様式や家の構造は、人間になるべく仕事をさせないように故意に出来ているといっても過言ではありません。殊に少しく実の入った精神的な仕事を
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