言葉を浴せかけました。
「何故、お前《めえ》は己《おれ》に断りもしねえで、先に帰った」
「私《わし》かえ」とお隅は手桶を夕顔|棚《だな》の蔭に置いて、「だっても父《とっ》さんが帰れと言いなさるから、皆《みんな》と一緒に帰りやしたよ」
「人の気を知らねえにも程がある」と源は怒気を含んで、舌なめずりをして、「何が可笑《おか》しい。気の毒に思うのが至当《あたりまえ》じゃねえか」
「あれ、そんな貴方《あんた》のような無理な――私は笑いもどうもしやせんよ」
 とお隅は呆《あき》れて夫の顔を見つめました。源は紅く顔を泣|腫《は》らして、口唇を震わせている様子。尋常《ただ》ではない、とお隅も思いましたものの、夕飯の仕度に心は急《せ》くし、それに、なまじっか原のことを言い出して慰めて見たところで、反て気を悪くさせるようなもの、当らず触らずに越したことはない、と秋の日脚《ひあし》を眺めまして、手桶を提げて立とうとする。源は前後《あとさき》の考があるじゃなし、不平と怨恨《うらみ》とですこし目も眩《くら》んで、有合う天秤棒《てんびんぼう》を振上げたから堪《たま》りません――お隅はそこへ什《たお》れました。垣根の傍に花を啄《つ》んでいた鶏は、この物音に驚いて舞起つもあれば、鳴いて垣根の下を潜《もぐ》るもあり、手桶の水は葱畠《ねぎばたけ》の方へ流れて行きました。
「ちょッ、勿体《もったい》をつけやがって」
 と叱るように言って、ややしばらく源は、お隅の悶え苦しむ様を見ておりました。やがて、愚しい目付をしながら、
「どこがそんなに痛いよ。どれ……見せろ」
 源の手がお隅の右の足に触るか触らないに、女は悲鳴を揚げて顔色を変えました。
「大袈裟《おおげさ》な真似《まね》をするない――狸《たぬき》め」
 父親《おやじ》の影が見えたので、源は窃《そっ》と表の方へ抜出しました。何処へ行くという目的《めあて》もなく、ぶらりと出掛けて、やがて二三町も歩いてまいりますと、さ、足は不思議に前へ進まなくなりました。源は恐怖《おそれ》を抱くようになったのです。

    弐

「源さ、お入りや。なんだって障子の外からなんぞ覗《のぞ》くんだえ」
 と声を掛けましたのは、鹿の湯の女亭主《かみさん》です。源は煤《すす》けた障子を開けて、ぬっと蒼《あお》ざめた顔だけ顕《あらわ》しながら、
「私は女衆ばかりかと思って」
「女衆ばかりかと思ったら――御生憎《おあいにく》さま」
 と、炉辺で男の笑声が起る。源も苦笑《にがわらい》しながら入りました。
「かみさん、酒を一杯おくれや」
 鹿の湯というのは海の口村の出はずれにある一軒家、樵夫《きこり》の為に村醪《じざけ》も暖めれば、百姓の為に干魚《ひうお》も炙《あぶ》るという、山間《やまあい》の温泉宿です。女亭主《かみさん》は蓬《ほう》けた髪を櫛巻《くしまき》で、明窓《あかりまど》から夕日を受けた流許《ながしもと》に、かちゃかちゃと皿を鳴して立働く。炉辺には、源より先に御輿《みこし》を据えて、ちびりちびり飲んでいる客がある。二階には兵士の客もある様子。炉に懸けた泥鰌汁《どじょうじる》の大鍋《おおなべ》からは盛に湯気が起《た》ちまして、そこに胡座《あぐら》をかいた源の顔へ香《にお》いかかるのでした。筒袖《つつそで》の半天を着た赤ら顔の娘は、梯子段《はしごだん》を上ったり下りたりして、酒を運んでおりましたが、やがて炉辺へやってきて、塗箸《ぬりばし》を添えた胡栗脚《くるみあし》の膳《ぜん》に香の物と猪口《ちょく》を載せて出し、丼《どんぶり》には汁をつけてくれる。
「さあ、御燗《おかん》がつきやした」
 と時代な徳利を布巾《ふきん》で持添えて、勧めた。源は熱燗の極《ごく》というところを猪口にうけて、
「お前《めえ》の御酌だと、同じ酒が余計に甘く飲めるというもんだ」
「まあ、源さの巧く言うこと」
「どうだい、私の女房になる気はねえかよ」
「戯語《じょうだん》ばかりお言いでない」
 客も黙ってはいられません。黒々と生延《はえの》びた腮《あご》の鬚《ひげ》を撫廻しながら、
「とかく、若い方の傍へは寄りたいものと見えるね」
 と、ちらちらした目付で、娘を嬲《なぶ》りにかかる。娘はすこし憤然《むっ》として見せて、
「この御客さんも、これでなかなか学者だぞい」
「へへへへ」と客はいやに笑って、「これでとは何だよ。人間も朝から晩まで稼《かせ》ぐばかりじゃ、ねっからつまりませんや。ちったあ自分の好自由になる時がなくちゃ」
「貴方《あんた》、好事《いいこと》を教えて上る」と娘は乗出して、「明日はゆっくりお勝さんの許《とこ》へ行って、一緒に小屋の内で本でも読みやれ」
「へへへへ、明日は日曜だ。日本外史でも読まずかと思って」
「先生は何方《どちら》ですい」と源は尋ねて見ました。
「私《わし》かね。私は大屋の者《もん》ですが、爰《ここ》の登記役場の書記に出ていやすよ。私も海の口へはまだ引越して来たばかりで。これからは何卒《どうか》まあ君等にも御心易くして貰《もら》わにゃならん――さ、一杯|献《あ》げやしょう」
 二階ではしきりに手が鳴る。娘はいそいそと梯子段を上って行きました。急に四辺《そこいら》が明るくなったかと思うと――秋の日が暮れるのでした。暗い三分心の光は煤けた壁の錦絵を照して、棚の目無達磨《めなしだるま》も煙の中に朦朧《もうろう》として見える。
「どうです、きょうの原の騒ぎは」と書記は楢《なら》を焼《く》べて火気を盛にしながら、「殿下が女にも子供にも御挨拶のあったには私|魂消《たまげ》た。競馬で人の出たには――これにも魂消た。君も競馬を終局《しまい》まで見物しましたかい」
 源は苦笑《にがわらい》をしました。書記はそれとも知らない様子で、
「さ、不思議なこともあればあるもので、私の同僚が今日の競馬に出た男のところへ娘を嫁《かたづ》けてあるという話さ。娘の名ですかい――お隅さん。あの子なら私は大屋で克《よ》く知っていやす。しかも今日、原で不意と逢いやしてね。丸髷《まるまげ》なんかに結ってるもんだで、見違えて了いやしたのさ」
 と言われて、源は手を揉んでおりますと、書記は人に話をさせない男でして、
「まあ聞いてくれ給え。こういう訳です。私が今、爰《ここ》へ来る途中、同僚が蒼くなって通るから、君どうしたい、と聞くと、娘のやつが夫婦喧嘩して、足の骨を折った、医者のところへこれから行くんだ、と言って、先生からもう大弱りさ。かわいそうに――よくよく運の悪い子だ」
 聞いていた源は急に顔色を変えて、すこし狼狽《うろたえ》て、手に持った猪口の酒を零《こぼ》しました。書記は一向|無頓着《むとんじゃく》――何も知らない様子なので、源もすこしは安心したのでした。腹蔵《つつみかくし》のない話が、こうして景気を付けてはいるものの、それはほんの酒の上、心の底は苦しいので、
「先生、足の骨を折られて死んだものがごわしょうか」
 と恍《とぼ》け顔に聞いて見る。書記は愚痴を酒の肴《さかな》というような風で、初対面の者にも聞かせずにはいられない男ですから――碌々源の言うことも耳に止めないで、とんちんかんな挨拶《あいさつ》。「私《わし》は登記役場に出てから、三年目になりやすよ。馬流《まながし》の正公《しょうこう》は私よりか前に奉職して、それで私と給料が同じだもんだで、大層口惜しがってね。此頃《こないだ》も、馬流へ行った時、正公のところへ寄って、正公ちったあ上げて貰いやしたかね、と聞いたら、弱ったよ、今月は五十銭も上るかと思ったに、この模様ではお流れだ、と言って嘆《こぼ》していやした」
「どうでごわしょう、先生、その女も足の骨を折られた位で……」
「しかし、人間は信用がなくちゃ駄目だね。私なんかのように貧乏人で、能の無い者でも、難有《ありがた》いことには皆さんが贔顧《ひいき》にしてくれてね。此頃《こないだ》も斎藤書記官に逢いやした時、お前《めえ》は今いくら取る、と言いやすから、九円になりやしたと言うと、九円? 九円も取るか、と大層喜んでくれやして、九円取れればいいだろう、と言いやすのさ。そりゃ私|独《ひと》りなら楽ですけれど、家内が大勢でなかなかやりきれやせん、と言いやしたら、よしよしその中に又た乃公《おれ》が骨を折って上るようにしてやる、と言ってくれやした」
「どうでごわしょう、先生、その女も……」
「噫《ああ》。貧苦ほど痛いものは無いね。貧苦、貧苦、子供は七人もあるし、家内には亡くなられるし――加《おまけ》に子供は与太野郎(愚物)ばかりで……。なあ、君、私もこんなに貧乏していて、それで酒ばかりは止められない。この楽みがあればこそ活きてる。察してくれ給え、酒でも飲まなけりゃいられんじゃないか」
「どうでごわしょう、先生……」
「地方裁判所なんとなると、どうもさすがに違ったものだね。君、『テエブル』が一畳敷もあろうかと思われる位大きくて、その上には青い織物《きれ》が掛けてもあるし、肘突《ひじつき》なんかもあるし、腰掛には空気枕のようなやつが付いてて、所長の留守に一寸乗って見ると――ぷくぷくしていて、工合のいいことと言ったら。君、そうして廷丁が三人も居るんだよ。それで呼鈴《よびりん》と言うので、ちりりんと拈《ひね》ると、そのまあ、ちり、ちり、ちりん、の工合で誰ということが分ると見えて、その人がやって来ますね。大したものですなあ」
 すこし話が途切れました。月のさした窓の外に蟋蟀《こおろぎ》の鳴く声が聞える。蛾《が》の大なのが家《うち》の内へ舞込んで来て、暗い洋燈《ランプ》の周囲《まわり》を飛んでおりましたが、やがて炉辺へ落ちて羽をばたばたさせる。書記は煙管《なたまめ》の雁首《がんくび》で虫を押えたかと思うと、炉の灰の中へ生埋めにしました。
「先生」と源は放心した人のように灰の動く様を熟視《みつ》めて、「先刻の御話でごわすが、足の骨を折られて死んだものがごわしょうか」
「有ますとも。足の傷はあれでなかなか馬鹿にならん。現在、私の甥《おい》がそれだ――撃《ぶ》ち処《どこ》が悪かったと見えて、直に往生《まい》って了った。人間の命は脆《もろ》いものさ……見給え、この虫の通りだ」
「ははははは」と源は愚かしい目付をして、寂しそうに笑って、「万一、その女が死にでもしたら、先生、奴さんの方はどうなりやしょう」
「そりゃあ君、知れきってる話さ。無論、捕《つかま》らあね。人を殺して置いて自分ばかり助かるという理屈はないからな」
「ははははは」
 源は反返《そりかえ》って笑いました。人間は時々心と正反対《うらはら》な動作《こと》をやる――源の笑いが丁度それです。話好な書記は乗気になって、
「あの子についちゃ実にかわいそうな話があるんでね。私はお隅さんを見ると、罅痕《ひびたけ》の入った茶椀《ちゃわん》を思出さずにいられやせんのさ。まあ聞いてくれ給え」
 と前置をして、話出したのはこうでした。
 お隅の父親《おやじ》がこの男と同じ書記仲間で大屋の登記役場に勤めている時分――お隅も大屋へ来て、唯有《とあ》る家に奉公していました。根が働好な女で、子供の世話、台所の仕事、そりゃあもう何から何まで引受けて、身を粉にして勤めましたから、さあ界隈《かいわい》でも評判。お隅が遠い井戸から汲々《せっせ》と水を担いで通るところを見掛けた者は、誰一人|褒《ほ》めないものが無い位。主人の家というのは少許《すこし》引込んだ処に在って、鉄道の踏切を通らねば、町へ買物に出ることが出来ないのでした。お隅はよく主人の子供を負《おぶ》って、その踏切を往たり来たりした。丁度、そこに線路番人が見張をして佇立《たたず》んでいて、お隅の通る度《たび》に言葉を掛ける。終《しまい》には、お隅の見えるのを楽みにして待っている、という風になりましたのです。ある日のこと、番人が休暇で自分の家の前に立っていると、そこをお隅は子供を負《おぶ》いながら通りました。お隅は無理やりに呼込まれて――その番人というのは、すばらしい力のある奴ですから、さんざんに嚇《おど》かされたり
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