は人を分けて特別席の幕外へ出ました。殿下はまた熱心に馬を見給う御様子。参事官なぞは最早《もう》飽果てて、八つが岳の裾に展がる西原の牧場を望んでおりました。源は御茶番の側を通りぬけて、秣小屋《まぐさごや》の蔭まで参りますと、そこには男女《おとこおんな》の群の中に、母親、叔母、外に身内の者も居る。源の若い妻――お隅も草を藉《し》いて。
「よっぽど良い馬が来た」
 と源は佇立《たたず》みながら独語《ひとりごと》のように。叔母は振り返って、
「道理だぞよ。そいッたってもなあ」
「叔母さん、宮様を拝まッしたか」
「私《わし》はなあ、橋の傍で拝みやした」
 母親《おふくろ》は源の横顔を熟視《みまも》って、
「源、お前《めえ》も握飯《むすび》はどうだい。たべろよ。沢山《たんと》あって残っても困るに」
「ああ」と源は夢中の返事、胸の中には勝負のことが往ったり来たりするばかり。名誉心の為に駆られて、饑渇《うえかわ》いて、唯もうそわそわとしておりました。
「これさ。たべろよ」
 という母親《おふくろ》の言葉に、お隅は握飯《むすび》を取って、源の手に握らせました。源は夢中で、一口それを頬張って、ぷいと厩の方へ駆出して行って了いました。
 御茶番から羽織|袴《はかま》で出て来た赤ら顔の農夫は源の父《おやじ》です。そこここと見廻して、
「源は来やせんか」と母親《おふくろ》に皺枯声《しゃがれごえ》で尋ねる。
「今、爰《ここ》に居たが、どこかへ駆走《とっぱし》っちゃった」
「彼奴《あいつ》にも困っちまう。今日は恰《まる》で狂人《きちがい》みたよう。私《わし》が、宮様へ上《あげ》る玉露の御相伴をさしたい、御茶菓子の麦落雁《むぎらくがん》も頂かせたい、と思って先刻《さっき》から探しているんだけど」
 叔母は引取って、
「源さの大《いか》くなったには、私《わし》魂消《たまげ》た。全然《まるで》、見違えるように。しかし、お前《めえ》には少許《ちっと》も肖《に》ていねえだに」
「私《わし》にかえ。彼奴は私に肖ねえで、亡くなった祖父《じじい》に肖《に》たと見える。私は彼奴を見ると、祖父を思出さずにはおられやせん」
 と楽しそうに話しておりますと「ファラリイス」の駒も大概《あらかた》御覧済になりましたので、御仮屋の北側に記念の小松を植えさせられました。人々は倦《う》んで了《しま》って、特別席にかしこまる官吏の影も見えません。宮は御休息もなく四列の厩を一々案内させて、二時問余も大佐、馬博士を御相手に、二百頭の馬匹の性質、血統、遺伝などを聞召《きこしめ》され、すこしも御疲労の体《てい》に見えさせ給わないのです。花やかに熱い秋の日が照りつけるので、色白な文官の群は幕の蔭に隠れ、互に膝頭《ひざがしら》を揉《も》みました。
 功名を急ぐ源にとりましては、この二時間の長さが堪えられない程の苦痛でした。いよいよ競馬の催が始まるということになりましたので、四千の群集は塵《ほこり》を揚げて、馬場の埒際《らちぎわ》へ吾先にと馳《か》けて参ります。源は黄色い土烟を嗅《か》いで噎返《むせかえ》りました。大波のように押寄る男女の雑沓《ざっとう》、子供の叫び声――とても巡査の力で制しきれるものでは有ません。「さあ、退《ど》いた、退いた」と、源は肩と肩との擦合《すれあ》う中へ割込んで、漸《やっと》のことで溜《たまり》へ参りますと、馬は悦《うれ》しそうに嘶《いなな》いて、大な首を源の身《からだ》へ擦付けました。
 その日の競馬は五組に分れて、抽籤《くじびき》の結果、源は最後へ廻ることになっておりました。誰しもこの最後の勝負を予想する、贔顧《ひいき》々々につれて盛に賭《かけ》が行われる。わけても源の呼声は非常なもので、あそこでも藁草履、ここでも藁草履、源の得意は思いやられました。最初《のっけ》から四番目まで、湧くような歓呼の裡《うち》に勝負が定まって、さていよいよお鉢《はち》が廻って来ると、源は栗毛《くりげ》に跨《またが》って馬場へ出ました。御仮屋の北にあたる埒《らち》の際《きわ》に、源の家族が見物していたのですが、両親の顔も、叔母の顔も、若い妻の顔すらも、源の目には入りません。馬上から眺めると群集の視線は自己《おのれ》一人に注《あつま》る、とばかりで、乾燥《はしゃ》いだ高原の空気を呼吸する度《たび》に、源の胸の鼓動は波打つようになりました。烈しい秋の光は源の頬を掠《かす》めて馬の鼻面《はなづら》に触《あた》りましたから、馬の鼻面は燃えるように見えました。
 五人の乗手の中で、源が心に懼《おそ》れたのは樺《かば》を冠った男です。白、紫、赤などは、さして恐るべき敵とも見えませんのでした。源は青です。樺は一見神経質らしい、それでいやに沈着《おちつ》きすました若い男で、馬も敏捷《びんしょう》な相好《そうごう》の、足腰の締《しま》った、雑種らしい灰色なんです。樺が場を踏んだ証拠は、馬の扱いが柔かで、ゆったりとしていて、加《おまけ》に捜りを入れるような目付をして、他の四人の呼吸を図っているのでも分る。それにこの男の静な、冷い態度《ようす》と言ったら――それは底の知れないような用心深いところがあって、一歩《ひとあし》でも馬に無駄を踏ませまいと、たくらんでいるらしい。源は大違です。あまり心が激《あせ》り過ぎて、乗出さぬ先から手綱を持《もつ》手が震えました。
 相図を聞くが早いか、五人の乗手はもう出発の線を離れる。真先に乗進んだのが源の青、次が紫、白、赤でした、樺は乗|後《おく》れて見えました。「青、青」の叫び声は埒の四方から起る。殿下は御仮屋の紫の幕のかげに立たせられ、熱心に眺入らせ給うのでした。大佐は幾度馬博士の肩を叩《たた》いたか知れません。知事も、郡長も、御附の人々も総立です。参事官は白いしなやかな手を振りました。五人の乗手は丁度乗出した時と同じ順で、五十間ばかりの距離を波打つように乗進んで行った。源が紫に先んじたことは、樺が赤に後れたと同じ程の距離です。ですから源が振返って後を見た時は、舞揚る黄色い土烟《つちけむり》の中に、紫と白とがすれすれに並び進んで、乗迫って来たのを認めたばかり。懼《おそ》るべき灰色の馬頭は塵埃《ほこり》に隠れて見えませんのでした。驚破《すわや》、白は紫を後に残して、真先に進む源をも抜かんとする気勢《けはい》を示して、背後に肉薄して来た。「青」、「白」の声は盛に四方から起る。源も、白も、馬に鞭《むちう》って進みました。競馬好きな馬博士は、「そこだ、そこだ」とばかりで、身を悶《もだ》えて、左の手に持った山高帽子の上へ頻《しきり》と握拳《にぎりこぶし》の鞭をくれる。大佐は薄鬚《うすひげ》を掻※[#「※」は「てへん+劣」、77−9]《かきむし》りました。今、源は百間ばかりも進んだのでしょう。馬は泡立つ汗をびっしょり発《かい》て、それが湯滝のように顔を伝う、流れて目にも入る。白い鼻息は荒くなるばかりで、烈しく吹出す時の呼吸に、やや気勢の尽きて来たことが知れる。さあ、源は激《あせ》らずにおられません。こうなると気を苛《いら》って妄《やたら》に鞭を加えたくなる。馬は怒の為に狂うばかりになって、出足が反《かえっ》て固くなりました。遽《にわか》に「樺、樺」と呼ぶ声が起る。樺はたしかに最後の筈《はず》。しかし、その樺が今まで加え惜んでいた鞭を烈しくくれて、衰えて来た前駆の隙《すき》を狙《ねら》ったから堪りません。見る見る赤を抜き、紫を抜きました。馬博士は帽子を掴潰《つかみつぶ》して狂人《きちがい》のように振回す。樺は奮進の勢に乗って、凄《すさま》じく土塵《つちぼこり》を蹴立てました。それと覚った源が満身の怒気は、一時に頭へ衝きかかる。如何《いかん》せん、樺は驀地《まっしぐら》。馬に翼、翼に声とはこれでしょう。忽《たちま》ち閃電《いなずま》のように源の側を駆抜けて了いました。
 必勝を期していた源の失望も思いやられます。勝利の旗は樺の手に落ちました。それは文字を白く染抜いた紫の旗で、外に記念の賞を添えまして、殿下の御前《おんまえ》、群集の喝采《かっさい》の裡《なか》で、大佐から賜ったのでした。源の目は嫉妬《しっと》の為に輝いて、口唇は冷嘲《あざわら》ったように引|歪《ゆが》みました。今は誰一人源を振返って見るものがないのです。殿下は御|機嫌《きげん》麗しく、人々に丁寧な御言葉を賜りまして、御車に召させられました。御通路の左右に集る農夫の群にすら、白の御手套《おてぶくろ》を挙げて一々御挨拶が有りました。御附の人々、大佐、知事、馬博士などは車、参事官、郡長、郡書記、その他の官吏は徒歩《かち》、つづいて「ファラリイス」の駒三十四頭、牝馬二百四十頭、牡馬の群は最後に随《したが》いました。三百頭余の馬匹が列をつくって、こうして通りますのは人目を驚かす程の盛観でした。紫の旗をかざして、凱歌《がいか》を揚げて帰る樺の得意は、どんなでしたろう。さもさも勿体振《もったいぶ》って、いやに反身《そりみ》になって、人を軽蔑《けいべつ》したような目付をしながら、意気揚々と灰色の馬に跨った様は――いやもう小癪《こしゃく》に触って、二目と見られたものじゃない、とまあ、源は思うのでした。拝むような娘の群の視線はこの若者の横顔に注《あつま》りました。全く、源は業《ごう》が沸《に》えて、この男の通るのを見ていられません。嫉妬は一種の苦痛です。源は自分の馬の側に仆《たお》れて、恥かいた額を草の中に埋《うず》めました。
 疲労と失望とで悶え苦んでいた源が、むっくと起上った頃は――もう人々も帰って了った。居残る人足は腰を曲《こご》めて御仮屋を取片付ける最中。幕は畳み、旗は下して、遽《にわか》に四辺《そこいら》が寂しくなった。細々と白い煙の上る松蔭には、店を仕舞って帰って行く商人の群も見える。馬は主人を置去にして、そこここと手綱を引摺《ひきず》りながら、「かしばみ」の葉でも猟《あさ》っているらしい。今は、なにもかも源を見下げたり、笑ったりしてる――小鳥ですら人を軽蔑したような声で鳴いて通る、と源には思われるのでした。忌々しいものです。源は腹愈《はらいせ》のつもりで、路傍《みちばた》の石を足蹴《あしげ》にしてやった。尊大な源の生命《いのち》は名誉です。その名誉が身を離れたとすれば、残る源は――何でしょう。自分で自分を思いやると、急に胸が込上げて来て、涙は醜い顔を流れるのでした。やがて、思いついたように馬の傍へ馳寄《かけよ》って、力任せに手綱を引手繰《ひったく》りましたんです。
「こんな目に逢ったのも汝《うぬ》のお蔭だ」
 凡夫の悲しさ、源はその日のことを馬の過失《せい》にして、さんざんに当り散した。丁度、罪人を撻《むちう》つ獄卒のように、残酷な性質を顕したのです。馬に何の罪があろう。しかし畜生ながらに賢いもので、その日の失敗《しくじり》を口惜《くちお》しく思うものと見え、ただ悄々《しおしお》として、首を垂れておりました。二重※[#「※」は「めへん+匡」、79−8]《ふたえまぶち》の大な眼は紫色に潤んで来る。幽《かすか》に泄《もら》す声は深い歎息《ためいき》のようにも聞える。人間の苦痛《くるしみ》ですら知られずに済む世の中に、誰が畜生の苦痛を思いやろう。生活《いき》て、労苦《はたら》いて、鞭撻《むちう》たれる――それが畜生の運なんです。馬は不平な主人の後に随《つ》いて、とぼとぼと馬小屋の方へ帰って行きました。好な飼料《かいば》をあてがわれても、大麦の香を嗅《か》いで見たばかりで、口をつけようとはしませんでした。
 むしゃくしゃ腹で馬小屋を出まして、源は物置伝いに裏庭へ廻って見ますと、家には誰も居りません。楢《なら》の枯枝にからみつく青々とした夕顔の蔓《つる》の下には、二尺ばかりもあろうかと思われるのがいくつか生《な》り下《さが》って、白い花も咲き残っている。黄ばんだ秋の光が葉越しにさしこんだので、深い影は地に落ちておりました。丁度、そこへ手桶《ておけ》を提げて、水を汲んで帰って来たのが妻のお隅です。源は、いきなり、熱湯《にえゆ》のような
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