血するとはこの思いです。残酷な一生の記憶《おもいで》は蛇のように蘇生《いきかえ》りました。瞑《つぶ》った目蓋《まぶた》からは、熱い涙が絶間《とめど》もなく流出《ながれだ》して、頬を伝って落ちましたのです。馬は繋がれたまま、白樺《しらはり》の根元にある笹の葉を食っていたのですが、急に首を揚げて聞耳を立てました。向の楢林《ならばやし》――山梨の農夫が秣を刈集めている官有地の方角から、牝馬の嘶《いなな》く声が聞えて来る。やがて源の馬は胴震いして、鼻をうごめかして、勇しそうに嘶きました。一段の媚《こび》を含んだような牝馬の声が復た聞える。源の馬は夢中になって嘶きかわした。昨日から今日へかけて主人に小衝き廻されたことは一通りで無いのですもの、人間の残酷な叱※[#「※」は「口へん+它」、99−1]《しった》と、牝馬の恋の嘶きと、どちらがこの馬の耳には音楽のように聞えたか――言うまでもない。牝馬は、また、誘うような、思わせ振な声で――こういう時の役に立てねば外に役に立てる時は無いといいたい調子で、嘶きながら肥った灰色の姿を見せました。声を聞いたばかりでも、源の馬はさも恋しそうに眺め入っていたのですか
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