ら、愛らしい形を拝んでは堪りません。紫色の大な眼を輝して、波のように胸の動悸《どうき》を打たせて、しきりと尻尾を振りました。鼻息は荒くなって来て、白い湯気のように源の顔へかかる。
「止せ、畜生」
 と源は自分の顔を拭いて、その手で馬の鼻面を打ちました。馬は最早《もう》狂気です。牝馬の恋しさに目も眩《くら》んで、お隅を乗せていることも忘れて了う。やがて一振、力任せに首を振ったかと思うと、白樺《しらはり》の幹に繋いであった手綱はポツリと切れる。黄ばんだ葉が落ち散りました。
 あれ、という間に、牝馬の方を指して一散に駆出す。源は周章《あわ》てて、追馳《おいか》けて、草の上を引摺《ひきず》って行く長い手綱に取縋《とりすが》りました。
 さすがに人に誇っておりました源の怪力も、恋の力には及《かな》いません。源は怒の為に血を注いだようになりまして、罵《ののし》って見ても、叱って見ても、狂乱《くるいみだ》れた馬の耳には何の甲斐《かい》もない。五月雨《さみだれ》揚句の洪水《おおみず》が濁りに濁って、どんどと流れて、堤を切って溢《あふ》れて出たとも申しましょうか。左右に長い鬣《たてがみ》を振乱して牝馬と
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