めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾《すそ》の見えた八つが岳が次第に嶮《けわ》しい山骨を顕わして来て、終《しまい》に紅色の光を帯びた巓《いただき》まで見られる頃は、影が山から山へ映《さ》しておりました。甲州に跨《またが》る山脈の色は幾度《いくたび》変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空になりました。
ああ朝です。
男山、金峯《きんぷ》山、女山、甲武信岳《こぶしがたけ》、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源。かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました。
馬上のお隅は首を垂下げておりましたが、清《すず》しい朝の空気を吸うと急に身体を延して、そこここの景色を眺め廻して、
「貴方《あんた》、お願いでごわすが、爰《ここ》から家へ帰って下さい」
と言われて、源は呆《あき》れながらお隅の顔を見上げました。
「折角、爰まで来て、帰ると言う馬鹿が何処にある」
「私はどうしても平沢へ行きたくないような心地《こころも
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