「成程、打ったのは己が打った、女房の命は亭主の命、女房の身体は亭主の身体だ。己のものを打ったからとて、何の不思議はねえ」弁解《いいほど》いて見る。思乱れてはさまざまです。源の心は明くなったり、暗くなったりしました。
馬は取付く虻《あぶ》を尻尾で払いながら、道を進んでまいりましたが、時々眼を潤ませては、立止りました。神経の鋭いものだけに、主人を懐しむことも恐れることも酷《はげ》しいものと見え、すこし主人に残酷な様子が顕れると、もう腰骨《こしぼね》を隆《たか》くして前へ進みかねる。
「そら牛馬《うしうま》め」
と源は怒気を含んで、烈しく手綱を引廻す。「意地が悪くて、遅いから、牛馬だ。そら、この牛め」
馬は片意地な性質を顕して、猶々出足が渋ってくる。
「やい戯※[#「※」は「ごんべん+虚」、93−9]《じょうだん》じゃねえぞ。余程《よっぽど》、この馬は与太馬(駑馬《どば》)だいなあ。こんな使いにくい畜生もありゃあしねえ」
長い手綱を手頃に引手繰《ひきたぐ》って、馬の右の股《もも》を打つ。
「しッ、しッ、そら、おじいさん」
馬は渋々ながら出掛けるのでした。
晴れて行く高原の霧のなが
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