えるようになりました。
 こうして馬の口を取って、歩いて行くことは、源にとりまして言うに言われぬ苦痛です。源も万更《まんざら》憐《あわれ》みを知らん男でもない。いや、大知りで、随分|落魄《おちぶ》れた友人を助けたことも有るし、難渋した旅人に恵んでやった例もある。もし、外の女が災難で怪我でもして、平沢へ遣らんけりゃ助からない、誰か馬を引いて行ってくれるものは無いか、とでも言おうものなら、それこそ源は真先に飛出して、一肌ぬいで遣りかねない。人が褒めそやすなら源は火の中へでも飛込んで見せる。それだのに悩み萎れた自分の妻を馬に乗せて出掛るとなると、さあ、重荷を負《しょ》ったような苦痛《くるしみ》ばかりしか感じません。もうもう腹立しくもなるのでした。
 それ、そういう男です。高慢な心の悲しさには、「自分が悪かった」と思いたくない。死んでも後悔はしたくない。女房の前に首を垂《さげ》て、罪過《あやまち》を謝《わび》るなぞは猶々出来ない。なんとか言訳を探出して、心の中の恐怖《おそれ》を取消したい。と思迷って、何故、お隅を打ったのかそれが自分にも分らなくなる。「痴《たわけ》め」と源は自分で自分を叱って、
前へ 次へ
全53ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング