渋るやつを、無理無体に外へ引出しました。お隅の萎れた身体は鞍《くら》の上に乗せ、足は動かさないように聢《しっか》と馬の胴へ括付《くくりつ》けました。母親《おふくろ》は油火《カンテラ》を突付けて見せる――お隅は編笠、源は頬冠《ほっかぶ》りです。坂の上り口まで父親に送られて、出ました。
夜はまだ明放れません。鶏の鳴きかわす声が遠近《あちこち》の霧の中に聞える。坂を越して野辺山が原まで出てまいりますと、霧の群は行先《ゆくて》に集って、足元も仄暗《ほのぐら》い。取壊《とりくず》さずにある御仮屋《おかりや》も潜み、厩《うまや》も隠れ、鼻の先の松は遠い影のように沈みました。昨日の今日でしょう、原の上の有様は、よくも目に見えないで、見えるよりかも反って思出の種です。夫婦の進んでまいりましたのは原の中の一筋道――甲州へ通う旧道でした。二人は残夢もまだ覚めきらないという風で、温い霧の中をとぼとぼと辿《たど》りました。
高原の上に寂しい生活を送る小な村落は、旧道に添いまして、一里置位に有るのです。やがて取付《とっつき》の板橋村近く参りますと、道路も明くなって、ところどころ灰紫色《はいむらさき》の空が見
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