つぎの名人が有るということだによって、明日はなんでも其処へお隅を遣《や》ることだ、と言ってなさる。なあ、お前も明日の朝は暗え中に起きて、お隅を馬に乗せて、村の人の寝ている中に出掛けて行きなされ」
こういう話をして、家へ帰って見ますと、お隅も寝入った様子。母親《おふくろ》は源を休ませて置いて、炉辺で握飯をこしらえました。父親も不幸な悴《せがれ》の為に明日履く草鞋《わらじ》を作りながら、深更《おそく》まで二人で起きていたのです。度を過した疲労の為に、源もおちおち寝られません。枕許の畳を盗むように通る鼠の足音まで恐しくなって、首を持上げて見る度に、赤々と炉に燃上る楢の火炎《ほのお》は煤けた壁に映っておりました。源は心《しん》が疲れていながら、それで目は物を見つめているという風で、とても眠が眠じゃない――少許《すこし》とろとろしたかと思うと、復た恐しい夢が掴みかかる。
夜中にすこし時雨《しぐれ》ました。
源は暁前《よあけまえ》に起されて、馬小屋へ仕度に参りましたが、馬はさすがに昨日の残酷な目を忘れません。蚊《か》の声のする暗い隅の方へとかく逡巡《しりごみ》ばかりして、いつもの元気もなく出
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