主人へ対して申訳のないこと、朝夕にまといつく主人の子供もさぞ後で尋ね慕うかと思えば愍然《ふびん》なこと、「これも身から出た錆《さび》、父《とっ》さん堪忍しておくれ、すみより」としてありましたそうです。父親は無学な娘の手紙を読んで、その上に熱い涙を落しましたとのこと。
「という訳で」と書記は冷くなった酒を飲干して、「ところが同僚は極の好人物《ひとよし》だもんだで、君どうでしょう、泣寝入さ。私は物数寄《ものずき》にその番人を見に行きやした。丁度、直江津の二番が上って来た時で、その男が饅頭笠《まんじゅうがさ》を冠って、踏切のところに緑色の旗を出していやしたよ。え――君はその番人をどんな男だと思うえ。せめて年でも若いのかと? へへへへへ、いやはや大違い。私も魂消《たまげ》たねえ、まあ同僚と同い年位の爺《おやじ》じゃないか」
 源は蒼くなって、炉に燃え上る楢の焚火《たきび》を見入ったまま。
「それから一月ばかり経って」と書記は思出したように震えながら、「私は一度あの子に行逢ったがね、その時のお隅さんは――へえもう、がらりと変っていやしたよ。蟀谷《こめかみ》のところへ紫色の頭痛|膏《こう》なんぞを
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