あ聞いてくれ給え」
と前置をして、話出したのはこうでした。
お隅の父親《おやじ》がこの男と同じ書記仲間で大屋の登記役場に勤めている時分――お隅も大屋へ来て、唯有《とあ》る家に奉公していました。根が働好な女で、子供の世話、台所の仕事、そりゃあもう何から何まで引受けて、身を粉にして勤めましたから、さあ界隈《かいわい》でも評判。お隅が遠い井戸から汲々《せっせ》と水を担いで通るところを見掛けた者は、誰一人|褒《ほ》めないものが無い位。主人の家というのは少許《すこし》引込んだ処に在って、鉄道の踏切を通らねば、町へ買物に出ることが出来ないのでした。お隅はよく主人の子供を負《おぶ》って、その踏切を往たり来たりした。丁度、そこに線路番人が見張をして佇立《たたず》んでいて、お隅の通る度《たび》に言葉を掛ける。終《しまい》には、お隅の見えるのを楽みにして待っている、という風になりましたのです。ある日のこと、番人が休暇で自分の家の前に立っていると、そこをお隅は子供を負《おぶ》いながら通りました。お隅は無理やりに呼込まれて――その番人というのは、すばらしい力のある奴ですから、さんざんに嚇《おど》かされたり
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