してね。丸髷《まるまげ》なんかに結ってるもんだで、見違えて了いやしたのさ」
と言われて、源は手を揉んでおりますと、書記は人に話をさせない男でして、
「まあ聞いてくれ給え。こういう訳です。私が今、爰《ここ》へ来る途中、同僚が蒼くなって通るから、君どうしたい、と聞くと、娘のやつが夫婦喧嘩して、足の骨を折った、医者のところへこれから行くんだ、と言って、先生からもう大弱りさ。かわいそうに――よくよく運の悪い子だ」
聞いていた源は急に顔色を変えて、すこし狼狽《うろたえ》て、手に持った猪口の酒を零《こぼ》しました。書記は一向|無頓着《むとんじゃく》――何も知らない様子なので、源もすこしは安心したのでした。腹蔵《つつみかくし》のない話が、こうして景気を付けてはいるものの、それはほんの酒の上、心の底は苦しいので、
「先生、足の骨を折られて死んだものがごわしょうか」
と恍《とぼ》け顔に聞いて見る。書記は愚痴を酒の肴《さかな》というような風で、初対面の者にも聞かせずにはいられない男ですから――碌々源の言うことも耳に止めないで、とんちんかんな挨拶《あいさつ》。「私《わし》は登記役場に出てから、三年目に
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