。
「私《わし》かね。私は大屋の者《もん》ですが、爰《ここ》の登記役場の書記に出ていやすよ。私も海の口へはまだ引越して来たばかりで。これからは何卒《どうか》まあ君等にも御心易くして貰《もら》わにゃならん――さ、一杯|献《あ》げやしょう」
二階ではしきりに手が鳴る。娘はいそいそと梯子段を上って行きました。急に四辺《そこいら》が明るくなったかと思うと――秋の日が暮れるのでした。暗い三分心の光は煤けた壁の錦絵を照して、棚の目無達磨《めなしだるま》も煙の中に朦朧《もうろう》として見える。
「どうです、きょうの原の騒ぎは」と書記は楢《なら》を焼《く》べて火気を盛にしながら、「殿下が女にも子供にも御挨拶のあったには私|魂消《たまげ》た。競馬で人の出たには――これにも魂消た。君も競馬を終局《しまい》まで見物しましたかい」
源は苦笑《にがわらい》をしました。書記はそれとも知らない様子で、
「さ、不思議なこともあればあるもので、私の同僚が今日の競馬に出た男のところへ娘を嫁《かたづ》けてあるという話さ。娘の名ですかい――お隅さん。あの子なら私は大屋で克《よ》く知っていやす。しかも今日、原で不意と逢いや
前へ
次へ
全53ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング