衆ばかりかと思ったら――御生憎《おあいにく》さま」
と、炉辺で男の笑声が起る。源も苦笑《にがわらい》しながら入りました。
「かみさん、酒を一杯おくれや」
鹿の湯というのは海の口村の出はずれにある一軒家、樵夫《きこり》の為に村醪《じざけ》も暖めれば、百姓の為に干魚《ひうお》も炙《あぶ》るという、山間《やまあい》の温泉宿です。女亭主《かみさん》は蓬《ほう》けた髪を櫛巻《くしまき》で、明窓《あかりまど》から夕日を受けた流許《ながしもと》に、かちゃかちゃと皿を鳴して立働く。炉辺には、源より先に御輿《みこし》を据えて、ちびりちびり飲んでいる客がある。二階には兵士の客もある様子。炉に懸けた泥鰌汁《どじょうじる》の大鍋《おおなべ》からは盛に湯気が起《た》ちまして、そこに胡座《あぐら》をかいた源の顔へ香《にお》いかかるのでした。筒袖《つつそで》の半天を着た赤ら顔の娘は、梯子段《はしごだん》を上ったり下りたりして、酒を運んでおりましたが、やがて炉辺へやってきて、塗箸《ぬりばし》を添えた胡栗脚《くるみあし》の膳《ぜん》に香の物と猪口《ちょく》を載せて出し、丼《どんぶり》には汁をつけてくれる。
「さあ、
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