言葉を浴せかけました。
「何故、お前《めえ》は己《おれ》に断りもしねえで、先に帰った」
「私《わし》かえ」とお隅は手桶を夕顔|棚《だな》の蔭に置いて、「だっても父《とっ》さんが帰れと言いなさるから、皆《みんな》と一緒に帰りやしたよ」
「人の気を知らねえにも程がある」と源は怒気を含んで、舌なめずりをして、「何が可笑《おか》しい。気の毒に思うのが至当《あたりまえ》じゃねえか」
「あれ、そんな貴方《あんた》のような無理な――私は笑いもどうもしやせんよ」
とお隅は呆《あき》れて夫の顔を見つめました。源は紅く顔を泣|腫《は》らして、口唇を震わせている様子。尋常《ただ》ではない、とお隅も思いましたものの、夕飯の仕度に心は急《せ》くし、それに、なまじっか原のことを言い出して慰めて見たところで、反て気を悪くさせるようなもの、当らず触らずに越したことはない、と秋の日脚《ひあし》を眺めまして、手桶を提げて立とうとする。源は前後《あとさき》の考があるじゃなし、不平と怨恨《うらみ》とですこし目も眩《くら》んで、有合う天秤棒《てんびんぼう》を振上げたから堪《たま》りません――お隅はそこへ什《たお》れました。垣
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