く思うものと見え、ただ悄々《しおしお》として、首を垂れておりました。二重※[#「※」は「めへん+匡」、79−8]《ふたえまぶち》の大な眼は紫色に潤んで来る。幽《かすか》に泄《もら》す声は深い歎息《ためいき》のようにも聞える。人間の苦痛《くるしみ》ですら知られずに済む世の中に、誰が畜生の苦痛を思いやろう。生活《いき》て、労苦《はたら》いて、鞭撻《むちう》たれる――それが畜生の運なんです。馬は不平な主人の後に随《つ》いて、とぼとぼと馬小屋の方へ帰って行きました。好な飼料《かいば》をあてがわれても、大麦の香を嗅《か》いで見たばかりで、口をつけようとはしませんでした。
 むしゃくしゃ腹で馬小屋を出まして、源は物置伝いに裏庭へ廻って見ますと、家には誰も居りません。楢《なら》の枯枝にからみつく青々とした夕顔の蔓《つる》の下には、二尺ばかりもあろうかと思われるのがいくつか生《な》り下《さが》って、白い花も咲き残っている。黄ばんだ秋の光が葉越しにさしこんだので、深い影は地に落ちておりました。丁度、そこへ手桶《ておけ》を提げて、水を汲んで帰って来たのが妻のお隅です。源は、いきなり、熱湯《にえゆ》のような
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