影も見えません。宮は御休息もなく四列の厩を一々案内させて、二時問余も大佐、馬博士を御相手に、二百頭の馬匹の性質、血統、遺伝などを聞召《きこしめ》され、すこしも御疲労の体《てい》に見えさせ給わないのです。花やかに熱い秋の日が照りつけるので、色白な文官の群は幕の蔭に隠れ、互に膝頭《ひざがしら》を揉《も》みました。
功名を急ぐ源にとりましては、この二時間の長さが堪えられない程の苦痛でした。いよいよ競馬の催が始まるということになりましたので、四千の群集は塵《ほこり》を揚げて、馬場の埒際《らちぎわ》へ吾先にと馳《か》けて参ります。源は黄色い土烟を嗅《か》いで噎返《むせかえ》りました。大波のように押寄る男女の雑沓《ざっとう》、子供の叫び声――とても巡査の力で制しきれるものでは有ません。「さあ、退《ど》いた、退いた」と、源は肩と肩との擦合《すれあ》う中へ割込んで、漸《やっと》のことで溜《たまり》へ参りますと、馬は悦《うれ》しそうに嘶《いなな》いて、大な首を源の身《からだ》へ擦付けました。
その日の競馬は五組に分れて、抽籤《くじびき》の結果、源は最後へ廻ることになっておりました。誰しもこの最後の勝
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