をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。
「あ――一太。」
三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹やお徳の前に投げ出すようにして言った。
「こんな、罪もない子供までも殺す必要がどこにあるだろう――」
その時の三郎の調子には、子供とも思えないような力があった。
しかし、これほどの熱狂もいつのまにか三郎の内を通り過ぎて行った。伸び行くさかりの子供は、一つところにとどまろうとしていなかった。どんどんきのうのことを捨てて行った。
「オヤ――三ちゃんの『早川賢』もどうしたろう。」
と、ふと私が気づいたころは、あれほど一時大騒ぎした人の名も忘れられて、それが「木下《きのした》繁《しげる》、木下繁」に変わっていた。木下繁ももはや故人だが、一時は研究所あたりに集まる青年美術家の憧憬《どうけい》の的《まと》となった画家で、みんなから早い病死を惜しまれた人だ。
その時になって見ると、新しいものを求めて熱狂するような三郎の気質が、なんとなく私の胸にまとまって浮かんで来た。どうしてこの子がこんなに大騒ぎをやるかというに――早川賢にしても、木下繁にしても――彼らがみんな新しい人であるからであった。
「とうさんは知らないんだ――僕らの時代のことはとうさんにはわからないんだ。」
訴えるようなこの子の目は、何よりも雄弁にそれを語った。私もまんざら、こうした子供の気持ちがわからないでもない。よりすぐれたものとなるためには、自分らから子供を叛《そむ》かせたい――それくらいのことは考えない私でもない。それにしても、少年らしい不満でさんざん子供から苦しめられた私は、今度はまた新しいもので責められるようになるのかと思った。
末子も目に見えてちがって来た、堅肥《かたぶと》りのした体格から顔つきまで、この娘はだんだんみんなの母親に似て来た。上《うえ》は男の子供ばかりの殺風景な私の家にあっては、この娘が茶の間の壁のところに小乾《さぼ》す着物の類も目につくようになった。それほど私の家には女らしいものも少なかった。
今の住居《すまい》の庭は狭くて、私が猫《ねこ》の額《ひたい》にたとえるほどしかないが、それでも薔薇《ばら》や山茶花《さざんか》は毎年のように花が絶えない。花の好きな末子は茶の間から庭へ降りて、わずかばかりの植木を見に行くことにも学校通いの余暇を慰めた。今の住居《すまい》の裏側にあたる二階の窓のところへは、巣をかけに来る蜂《はち》があって、それが一昨年《おととし》も来、去年も来、何か私の家にはよい事でもある前兆のように隣近所の人たちから騒がれたこともある。末子はその窓の見える抜け道を通っては毎日学校のほうから帰って来た。そして、好きな裁縫や編み物のような、静かな手芸に飽きることを知らないような娘であった。そろそろ女の洋服がはやって来て、女学校通いの娘たちが靴《くつ》だ帽子だと新規な風俗をめずらしがるころには、末子も紺地の上着《うわぎ》に襟《えり》のところだけ紫の刺繍《ぬい》のしてある質素な服をつくった。その短い上着のまま、早い桃の実の色した素足《すあし》を脛《すね》のあたりまであらわしながら、茶の間を歩き回るなぞも、今までの私の家には見られなかった図だ。
この娘がぱったり洋服を着なくなった。私も多少本場を見て来たその自分の経験から、「洋服のことならとうさんに相談するがいいぜ」なぞと末子に話したり、帯で形をつけることは東西の風俗ともに変わりがないと言い聞かせたりして、初めて着せて見る娘の洋服には母親のような注意を払った。十番で用の足りないものは、銀座《ぎんざ》まで買いにお徳を娘につけてやった。それほどにして造りあげた帽子も、服も、付属品いっさいも、わずか二月《ふたつき》ほどの役にしか立たないとを知った時に私も驚いた。
「串談《じょうだん》じゃないぜ。あの上着は十八円もかかってるよ。そんなら初めから洋服なぞを造らなければいいんだ。」
日ごろ父|一人《ひとり》をたよりにしている娘も、その時ばかりは私の言うことを聞き入れようとしなかった。お徳がそこへ来て、
「どうしても末子さんは着たくないんだそうですよ。洋服はもういらないから、ほしい人があったらだれかにあげてくだすってもいいなんて……」
こういう場合に、末子の代弁をつとめるのは、いつでもこの下女だった。それにしても、どうかして私はせっかく新調したものを役に立てさせたいと思って、
「洋服を着るんなら、とうさんがまた築地《つきじ》小劇場をおごる。」
と言ってみせた。すると、お徳がまた娘の代わりに立って来て、
「築地へは行きたいし、どうしても洋服は着たくないし……」
それが娘の心持ちだった。その時、お徳はこんなこともつけたして言った。
「よくよく末子さんも、あの洋服がいやになったと見えますよ。もしかしたら、屑屋《くずや》に売ってくれてもいいなんて……」これほどの移りやすさが年若《としわか》な娘の内に潜んでいようとは、私も思いがけなかった。でも、私も子に甘い証拠には、何かの理由さえあれば、それで娘のわがままを許したいと思ったのである。お徳に言わせると、末子の同級生で新調の校服を着て学校通いをするような娘は今は一人もないとのことだった。
「そんなに、みんな迷っているのかなあ。」
「なんでも『赤襟《あかえり》のねえさん』なんて、次郎ちゃんたちがからかったものですから、あれから末子さんも着なくなったようですよ。」
「まあ、あの洋服はしまって置くサ。また役に立つ日も来るだろう。」
とうとう私には娘のわがままを許せるほどのはっきりした理由も見当たらずじまいであった。私は末子の「洋服」を三郎の「早川賢」や「木下繁」にまで持って行って、娘は娘なりの新しいものに迷い苦しんでいるのかと想《おも》ってみた。時には私は用達《ようたし》のついでに、坂の上の電車|路《みち》を六本木《ろっぽんぎ》まで歩いてみた。婦人の断髪はやや下火でも、洋装はまだこれからというころで、思い思いに流行の風俗を競おうとするような女学校通いの娘たちが右からも左からもあの電車の交差点《こうさてん》に群がり集まっていた。
私たち親子のものが今の住居《すまい》を見捨てようとしたころには、こんな新しいものも遠い「きのう」のことのようになっていた。三郎なぞは、「木下繁」ですらもはや問題でないという顔つきで、フランス最近の画界を代表する人たち――ことに、ピカソオなぞを口にするような若者になっていた。
「とうさん、今度来たビッシェールの画《え》はずいぶん変わっているよ。あの人は、どんどん変わって行く――確かに、頭がいいんだろうね。」
この子の「頭がいいんだろうね」には私も吹き出してしまった。
私の話相手――三人の子供はそれぞれに動き変わりつつあった。三人の中でも兄《にい》さん顔の次郎なぞは、五分刈《ごぶが》りであった髪を長めに延ばして、紺飛白《こんがすり》の筒袖《つつそで》を袂《たもと》に改めた――それもすこしきまりの悪そうに。顔だけはまだ子供のようなあの末子までが、いつのまにか本裁《ほんだち》の着物を着て、女らしい長い裾《すそ》をはしょりながら、茶の間を歩き回るほどに成人した。
「子供でも大きくなったら。」
長いこと待ちに待ったその日が、ようやく私のところへやって来るようになった。しかしその日が来るころには、私はもう動けないような人になってしまうかと思うほど、そんなに長くすわり続けた自分を子供らのそばに見いだした。
「強い嵐《あらし》が来たものだ。」
と、私は考えた。
「とうさん――家はありそうで、なかなかないよ。僕と三ちゃんとで毎日のように歩いて見た。二人《ふたり》ですっかりさがして見た。この麻布《あざぶ》から青山へんへかけて、もう僕らの歩かないところはない……」
と、次郎が言うころは、私たちの借家さがしもひと休みの時だった。なるべく末子の学校へ遠くないところに、そんな注文があった上に、よさそうな貸し家も容易に見当たらなかったのである。あれからまた一軒あるにはあって、借り手のつかないうちにと大急ぎで見に行って来た家は、すでに約束ができていた。今の住居《すまい》の南隣に三年ばかりも住んだ家族が、私たちよりも先に郊外のほうへ引っ越して行ってしまってからは、いっそう周囲もひっそりとして、私たちの庭へ来る春もおそかった。
めずらしく心持ちのよい日が私には続くようになった。私は庭に向いた部屋《へや》の障子をあけて、とかく気になる自分の爪《つめ》を切っていた。そこへ次郎が来て、
「とうさんはどこへも出かけないんだねえ。」
と、さも心配するように、それを顔にあらわして言った。
「どうしてとうさんの爪はこう延びるんだろう。こないだ切ったばかりなのに、もうこんなに延びちゃった。」
と、私は次郎に言ってみせた。貝爪《かいづめ》というやつで、切っても、切っても、延びてしかたがない。こんなことはずっと以前には私も気づかなかったことだ。
「とうさんも弱くなったなあ。」
と言わぬばかりに、次郎はややしばらくそこにしゃがんで、私のすることを見ていた。ちょうど三郎も作画に疲れたような顔をして、油絵の筆でも洗いに二階の梯子段《はしごだん》を降りて来た。
「御覧、お前たちがみんなでかじるもんだから、とうさんの脛《すね》はこんなに細くなっちゃった。」
私は二人の子供の前へ自分の足を投げ出して見せた。病気以来肉も落ち痩《や》せ、ずっと以前には信州の山の上から上州《じょうしゅう》下仁田《しもにた》まで日に二十里の道を歩いたこともある脛《すね》とは自分ながら思われなかった。
「脛《すね》かじりと来たよ。」
次郎は弟のほうを見て笑った。
「太郎さんを入れると、四人もいてかじるんだから、たまらないや。」
と、三郎も半分他人の事のように言って笑った。そこへ茶の間の唐紙《からかみ》のあいたところから、ちょいと笑顔《えがお》を見せたのは末子だ。脛かじりは、ここにも一人《ひとり》いると言うかのように。
その時まで、三郎は何かもじもじして、言いたいことも言わずにいるというふうであったが、
「とうさん――ホワイトを一本と、テラ・ロオザを一本買ってくれない? 絵の具が足りなくなった。」
こう切り出した。
「こないだ買ったばかりじゃないか。」
「だって、足りないものは足りないんだもの。絵の具がなけりゃ、何も描《か》けやしない。」
と、三郎は不平顔である。すると、次郎はさっそく弟の言葉をつかまえて、
「あ――またかじるよ。」
この次郎の串談《じょうだん》が、みんなを吹き出させた。
私は子供らに出して見せた足をしまって、何げなく自分の手のひらをながめた。いつでも自分の手のひらを見ていると、自分の顔を見るような気のするのが私の癖だ。いまいましいことばかりが胸に浮かんで来た。私はこの四畳半の天井からたくさんな蛆《うじ》の落ちたことを思い出した。それが私の机のそばへも落ち、畳の上へも落ち、掃いても掃いても落ちて来る音のしたことを思い出した。何が腐り爛《ただ》れたかと薄気味悪くなって、二階の部屋《へや》から床板《ゆかいた》を引きへがして見ると、鼠《ねずみ》の死骸《しがい》が二つまでそこから出て来て、その一つは小さな動物の骸骨でも見るように白く曝《さ》れていたことを思い出した。私は恐ろしくなった。何かこう自分のことを形にあらわして見せつけるようなものが、しかもそれまで知らずにいた自分のすぐ頭の上にあったことを思い出した。
その時になって見ると、過ぐる七年を私は嵐《あらし》の中にすわりつづけて来たような気もする。私のからだにあるもので、何一つその痕跡《こんせき》をとどめないものはない。髪はめっきり白くなり、すわり胼胝《だこ》は豆のように堅く、腰は腐ってしまいそうに重かった。朝寝の枕《まくら》もとに煙草盆《たばこぼん》を引きよせて、寝そべりながら一服やるような癖もついた。私の姉がそれをやった時分に、私はまだ若くて、年
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