嵐
島崎藤村
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)背丈《せたけ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一寸四|分《ぶ》ぐらいで
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子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈《せたけ》を比べに行った。次郎の背《せい》の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四|分《ぶ》ぐらいで鴨居《かもい》にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。
茶の間の柱のそばは狭い廊下づたいに、玄関や台所への通い口になっていて、そこへ身長を計りに行くものは一人《ひとり》ずつその柱を背にして立たせられた。そんなに背延びしてはずるいと言い出すものがありもっと頭を平らにしてなどと言うものがあって、家じゅうのものがみんなで大騒ぎしながら、だれが何分《なんぶ》延びたというしるしを鉛筆で柱の上に記《しる》しつけて置いた。だれの戯れから始まったともなく、もう幾つとなく細い線が引かれて、その一つ一つには頭文字《かしらもじ》だけをローマ字であらわして置くような、そんないたずらもしてある。
「だれだい、この線は。」
と聞いてみると、末子《すえこ》のがあり、下女《げじょ》のお徳《とく》のがある。いつぞや遠く満州の果てから家をあげて帰国した親戚《しんせき》の女の子の背丈《せたけ》までもそこに残っている。私の娘も大きくなった。末子の背は太郎と二寸ほどしか違わない。その末子がもはや九|文《もん》の足袋《たび》をはいた。
四人ある私の子供の中で、身長の発育にかけては三郎がいちばんおくれた。ひところの三郎は妹の末子よりも低かった。日ごろ、次郎びいきの下女は、何かにつけて「次郎ちゃん、次郎ちゃん」で、そんな背の低いことでも三郎をからかうと、そのたびに三郎はくやしがって、
「悲観しちまうなあ――背はもうあきらめた。」
と、よく嘆息した。その三郎がめきめきと延びて来た時は、いつのまにか妹を追い越してしまったばかりでなく、兄の太郎よりも高くなった。三郎はうれしさのあまり、手を振って茶の間の柱のそばを歩き回ったくらいだ。そういう私が同じ場所に行って立って見ると、ほとんど太郎と同じほどの高さだ。私は春先の筍《たけのこ》のような勢いでずんずん成長して来た次郎や、三郎や、それから末子をよく見て、時にはこれが自分の子供かと心に驚くことさえもある。
私たち親子のものは、遠からず今の住居《すまい》を見捨てようとしている時であった。こんなにみんな大きくなって、めいめい一部屋《ひとへや》ずつを要求するほど一人前《いちにんまえ》に近い心持ちを抱《いだ》くようになってみると、何かにつけて今の住居《すまい》は狭苦《せまぐる》しかった。私は二階の二部屋を次郎と三郎にあてがい(この兄弟《きょうだい》は二人《ふたり》ともある洋画研究所の研究生であったから、)末子は階下にある茶の間の片すみで我慢させ、自分は玄関|側《わき》の四畳半にこもって、そこを書斎とも応接間とも寝部屋《ねべや》ともしてきた。今一部屋もあったらと、私たちは言い暮らしてきた。それに、二階は明るいようでも西日が強く照りつけて、夏なぞは耐えがたい。南と北とを小高い石垣《いしがき》にふさがれた位置にある今の住居《すまい》では湿気の多い窪地《くぼち》にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子《しょうじ》はことに暗かった。
「ここの家には飽きちゃった。」
と言い出すのは三郎だ。
「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行ってさがして来るよ。いい家があったら、とうさんは見においで。」
次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人《ひとり》でも借家をさがしに出かけた。
今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを入れに行くにも二|町《ちょう》はある。煙草屋《たばこや》へ二町、湯屋へ三町、行きつけの床屋《とこや》へも五六町はあって、どこへ用達《ようたし》に出かけるにも坂を上《のぼ》ったり下《くだ》ったりしなければならない。慣れてみれば、よくそれでも不便とも思わずに暮らして来たようなものだ。離れて行こうとするに惜しいほどの周囲でもなかった。
実に些細《ささい》なことから、私は今の家を住み憂《う》く思うようになったのであるが、その底には、何かしら自分でも動かずにいられない心の要求に迫られていた。七年住んでみればたくさんだ。そんな気持ちから、とかく心も落ちつかなかった。
ある日も私は次郎と連れだって、麻布《あざぶ》笄町《こうがいちょう》から高樹町《たかぎちょう》あたりをさんざんさがし回ったあげく、住み心地《ごこち》のよさそうな借家も見当たらずじまいに、むなしく植木坂《うえきざか》のほうへ帰って行った。いつでもあの坂の上に近いところへ出ると、そこに自分らの家路が見えて来る。だれかしら見知った顔にもあう。暮れから道路工事の始まっていた電車通りも石やアスファルトにすっかり敷きかえられて、橡《とち》の並み木のすがたもなんとなく見直す時だ。私は次郎と二人《ふたり》でその新しい歩道を踏んで、鮨屋《すしや》の店の前あたりからある病院のトタン塀《べい》に添うて歩いて行った。植木坂は勾配《こうばい》の急な、狭い坂だ。その坂の降り口に見える古い病院の窓、そこにある煉瓦塀《れんがべい》、そこにある蔦《つた》の蔓《つる》、すべて身にしみるように思われてきた。
下女のお徳は家のほうに私たちを待っていた。私たちが坂の下の石段を降りるのを足音できき知るほど、もはや三年近くもお徳は私の家に奉公していた。主婦というもののない私の家では、子供らの着物の世話まで下女に任せてある。このお徳は台所のほうから肥《ふと》った笑顔《えがお》を見せて、半分子供らの友だちのような、慣れ慣れしい口をきいた。
「次郎ちゃん、いい家があって?」
「だめ。」
次郎はがっかりしたように答えて、玄関の壁の上へ鳥打帽《とりうちぼう》をかけた。私も冬の外套《がいとう》を脱いで置いて、借家さがしにくたぶれた目を自分の部屋《へや》の障子の外に移した。わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。
私が早く自分の配偶者《つれあい》を失い、六歳を頭《かしら》に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置いてみたが、結局父としての自分が進んでめんどうをみるよりほかに、母親のない子供らをどうすることもできないのを見いだした。不自由な男の手一つでも、どうにかわが子の養えないことはあるまい、その決心にいたったのは私が遠い外国の旅から自分の子供のそばに帰って来た時であった。そのころの太郎はようやく小学の課程を終わりかけるほどで、次郎はまだ腕白盛《わんぱくざか》りの少年であった。私は愛宕下《あたごした》のある宿屋にいた。二部屋《ふたへや》あるその宿屋の離れ座敷を借り切って、太郎と次郎の二人《ふたり》だけをそこから学校へ通わせた。食事のたびには宿の女中がチャブ台などを提《さ》げながら、母屋《おもや》の台所のほうから長い廊下づたいに、私たちの部屋までしたくをしに来てくれた。そこは地方から上京するなじみの客をおもに相手としているような家で、入れかわり立ちかわり滞在する客も多い中に、子供を連れながら宿屋ずまいする私のようなものもめずらしいと言われた。
外国の旅の経験から、私も簡単な下宿生活に慣れて来た。それを私は愛宕下《あたごした》の宿屋に応用したのだ。自分の身のまわりのことはなるべく人手を借りずに。そればかりでなく、子供にあてがう菓子も自分で町へ買いに出たし、子供の着物も自分で畳《たた》んだ。
この私たちには、いつのまにか、いろいろな隠し言葉もできた。
「あゝ、また太郎さんが泣いちゃった。」
私はよくそれを言った。少年の時分にはありがちなことながら、とかく兄のほうは「泣き」やすかったから、夜中に一度ずつは自分で目をさまして、そこに眠っている太郎を呼び起こした。子供の「泣いたもの」の始末にも人知れず心を苦しめた。そんなことで顔を紅《あか》めさせるでもあるまいと思ったから。
次第に、私は子供の世界に親しむようになった。よく見ればそこにも流行というものがあって、石蹴《いしけ》り、めんこ、剣玉《けんだま》、べい独楽《ごま》というふうに、あるものははやりあるものはすたれ、子供の喜ぶおもちゃの類までが時につれて移り変わりつつある。私はまた、二人《ふたり》の子供の性質の相違をも考えるようになった。正直で、根気《こんき》よくて、目をパチクリさせるような癖のあるところまで、なんとなく太郎は義理ある祖父《おじい》さんに似てきた。それに比べると次郎は、私の甥《おい》を思い出させるような人なつこいところと気象の鋭さとがあった。この弟のほうの子供は、宿屋の亭主《ていしゅ》でもだれでもやりこめるほどの理屈屋だった。
盆が来て、みそ萩《はぎ》や酸漿《ほおづき》で精霊棚《しょうりょうだな》を飾るころには、私は子供らの母親の位牌《いはい》を旅の鞄《かばん》の中から取り出した。宿屋ずまいする私たちも門口《かどぐち》に出て、宿の人たちと一緒に麻幹《おがら》を焚《た》いた。私たちは順に迎え火の消えた跡をまたいだ。すると、次郎はみんなの見ている前で、
「どれ三ちゃんや末ちゃんの分をもまたいで――」
と言って、二度も三度も焼け残った麻幹《おがら》の上を飛んだ。
「ああいうところは、どうしても次郎ちゃんだ。」
と、宿屋の亭主《ていしゅ》は快活に笑った。
ややもすれば兄をしのごうとするこの弟の子供を制《おさ》えて、何を言われても黙って順《したが》っているような太郎の性質を延ばして行くということに、絶えず私は心を労しつづけた。その心づかいは、子供から目を離させなかった。町の空で、子供の泣き声やけんかする声でも聞きつけると、私はすぐに座をたった。離れ座敷の廊下に出てみた。それが自分の子供の声でないことを知るまでは安心しなかった。
私のところへは来客も多かった。ある酒好きな友だちが、この私を見に来たあとで、「久しぶりでどこかへ誘おうと思ったが、ああして子供をひかえているところを見ると、どうしてもそれが言い出せなかった、」と、人に語ったという。その話を私は他の友だちの口から聞いた。でも、私も、引っ込んでばかりはいられなかった。世間に出て友だち仲間に交わりたいような夕方でも来ると、私は太郎と次郎の二人を引き連れて、いつでも腰巾着《こしぎんちゃく》づきで出かけた。
そのうちに、私は末子をもその宿屋に迎えるようになった。私は額《ひたい》に汗する思いで、末子を迎えた。
「二人育てるも、三人育てるも、世話する身には同じことだ。」
と、私も考え直した。長いこと親戚《しんせき》のほうに預けてあった娘が学齢に達するほど成人して、また親のふところに帰って来たということは、私に取っての新しいよろこびでもあった。そのころの末子はまだ人に髪を結ってもらって、お手玉や千代紙に余念もないほどの小娘であった。宿屋の庭のままごとに、松葉を魚《さかな》の形につなぐことなぞは、ことにその幼い心を楽しませた。兄たちの学校も近かったから、海老茶色《えびちゃいろ》の小娘らしい袴《はかま》に学校用の鞄《かばん》で、末子をもその宿屋から通わせた。にわかに夕立でも来そうな空の日には、私は娘の雨傘《あまがさ》を小わきにかかえて、それを学校まで届けに行くことを忘れなかった。
私たち親子のものは、足掛け二年ばかりの宿屋ずまいのあとで、そこを引き揚げることにした。愛宕下《あたごした》から今の住居《すまい》のあるところまでは、歩いてもそう遠くない。電車の線路に添うて長い榎坂《えのきざか》を越せば、やが
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