て植木坂の上に出られる。私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥《たんす》なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居《すまい》に引き移って来たのである。

 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆《ばあ》やを一人《ひとり》雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年ごろであったから、すこし遠くても電車で私の母校のほうへ通わせ、次郎と末子の二人《ふたり》を愛宕下の学校まで毎日歩いて通わせた。そのころの私は二階の部屋《へや》に陣取って、階下を子供らと婆やにあてがった。
 しばらくするうちに、私は二階の障子のそばで自分の机の前にすわりながらでも、階下に起こるいろいろな物音や、話し声や、客のおとずれや、子供らの笑う声までを手に取るように知るようになった。それもそのはずだ。餌《えさ》を拾う雄鶏《おんどり》の役目と、羽翅《はね》をひろげて雛《ひな》を隠す母鶏《ははどり》の役目とを兼ねなければならなかったような私であったから。
 どうかすると、末子のすすり泣く声が階下から伝わって来る。それを聞きつけるたびに、私はしかけた仕事を捨てて、梯子段《はしごだん》を駆け降りるように二階から降りて行った。
 私はすぐ茶の間の光景を読んだ。いきなり箪笥《たんす》の前へ行って、次郎と末子の間にはいった。太郎は、と見ると、そこに争っている弟や妹をなだめようでもなく、ただ途方に暮れている。婆やまでそこいらにまごまごしている。
 私は何も知らなかった。末子が何をしたのか、どうして次郎がそんなにまで平素のきげんをそこねているのか、さっぱりわからなかった。ただただ私は、まだ兄たち二人とのなじみも薄く、こころぼそく、とかく里心《さとごころ》を起こしやすくしている新参者《しんざんもの》の末子がそこに泣いているのを見た。
 次郎は妹のほうを鋭く見た。そして言った。
 「女のくせに、いばっていやがらあ。」
 この次郎の怒気を帯びた調子が、はげしく私の胸を打った。
 兄とは言っても、そのころの次郎はようやく十三歳ぐらいの子供だった。日ごろ感じやすく、涙もろく、それだけ激しやすい次郎は、私の陰に隠れて泣いている妹を見ると、さもいまいましそうに、
 「とうさんが来たと思って、いい気になって泣くない。」
 「けんかはよせ。末ちゃんを打つなら、さあとうさんを打て。」
 と、私は箪笥《たんす》の前に立って、ややもすれば妹をめがけて打ちかかろうとする次郎をさえぎった。私は身をもって末子をかばうようにした。
 「とうさんが見ていないとすぐこれだ。」と、また私は次郎に言った。「どうしてそうわからないんだろうなあ。末ちゃんはお前たちとは違うじゃないか。他《よそ》からとうさんの家へ帰って来た人じゃないか。」
 「末ちゃんのおかげで、僕がとうさんにしかられる。」
 その時、次郎は子供らしい大声を揚げて泣き出してしまった。
 私は家の内を見回した。ちょうど町では米騒動以来の不思議な沈黙がしばらくあたりを支配したあとであった。市内電車従業員の罷業《ひぎょう》のうわさも伝わって来るころだ。植木坂の上を通る電車もまれだった。たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪《くぼ》い谷の下にあるような私の家の四畳半の窓まで物すごく響けて来ていた。
 「家の内も、外も、嵐《あらし》だ。」
 と、私は自分に言った。
 私が二階の部屋《へや》を太郎や次郎にあてがい、自分は階下へ降りて来て、玄関|側《わき》の四畳半にすわるようになったのも、その時からであった。そのうちに、私は三郎をも今の住居《すまい》のほうに迎えるようになった。私はひとりで手をもみながら、三郎をも迎えた。
 「三人育てるも、四人育てるも、世話する身には同じことだ。」
 と、末子を迎えた時と同じようなことを言った。それからの私は、茶の間にいる末子のよく見えるようなところで、二階の梯子段《はしごだん》をのぼったり降りたりする太郎や次郎や三郎の足音もよく聞こえるようなところで、ずっとすわり続けてしまった。

 こんな世話も子供だからできた。私は足掛け五年近くも奉公していた婆やにも、それから今のお徳にも、串談《じょうだん》半分によくそう言って聞かせた。もしこれが年寄りの世話であったら、いつまでも一つ事を気に掛けるような年老いた人たちをどうしてこんなに養えるものではないと。
 私たちがしきりにさがした借家も容易に見当たらなかった。好ましい住居《すまい》もすくないものだった。三月の節句も近づいたころに、また私は次郎を連れて一軒別の借家を見に行って来た。そこは次郎と三郎とでくわしい見取り図まで取って来た家で、二人《ふたり》ともひどく気に入ったと言っていた。青山《あおやま》五丁目まで電車で、それから数町ばかり歩いて行ったところを左へ折れ曲がったような位置にあった。部屋の数が九つもあって、七十五円なら貸す。それでも家賃が高過ぎると思うなら、今少しは引いてもいいと言われるほど長く空屋《あきや》になっていた古い家で、造作もよく、古風な中二階などことにおもしろくできていたが、部屋が多過ぎていまだに借り手がないとのこと。よっぽど私も心が動いて帰って来たが、一晩寝て考えた上に、自分の住居《すまい》には過ぎたものとあきらめた。
 適当な借家の見当たり次第に移って行こうとしていた私の家では、障子も破れたまま、かまわずに置いてあった。それが気になるほど目について来た。せめて私は毎日ながめ暮らす身のまわりだけでも繕いたいと思って、障子の切り張りなどをしていると、そこへ次郎が来て立った。
 「とうさん、障子なんか張るのかい。」
 次郎はしばらくそこに立って、私のすることを見ていた。
 「引っ越して行く家の障子なんか、どうでもいいのに。」
 「だって、七年も雨露《あめつゆ》をしのいで来た屋根の下じゃないか。」
 と私は言ってみせた。
 煤《すす》けた障子の膏薬《こうやく》張りを続けながら、私はさらに言葉をつづけて、
 「ホラ、この前に見て来た家サ。あそこはまるで主人公本位にできた家だね。主人公さえよければ、ほかのものなぞはどうでもいいという家だ。ただ、主人公の部屋《へや》だけが立派だ。ああいう家を借りて住む人もあるかなあ。そこへ行くと、二度目に見て来た借家のほうがどのくらいいいかしれないよ。いかに言っても、とうさんの家には大き過ぎるね。」
 「僕も最初見つけた時に、大き過ぎるとは思ったが――」
 この次郎は私の話を聞いているのかと思ったら、何かもじもじしていたあとで、私の前に手をひろげて見せた。
 「とうさん、月給は?」
 この「月給」が私を笑わせた。毎月、私は三人の子供に「月給」を払うことにしていた。月の初めと半ばとの二度に分けて、半月に一円ずつの小|遣《づかい》を渡すのを私の家ではそう呼んでいた。
 「今月はまだ出さなかったかねえ。」
 「とうさん、きょうは二日《ふつか》だよ。三月の二日だよ。」
 それを聞いて、私は黒いメリンスを巻きつけた兵児帯《へこおび》の間から蝦蟇口《がまぐち》を取り出した。その中にあった金を次郎に分け、ちょうどそこへ屋外《そと》からテニスの運動具をさげて帰って来た三郎にも分けた。
 「へえ、末ちゃんにも月給。」
 と、私は言って、茶の間の廊下の外で古い風琴《オルガン》を静かに鳴らしている娘のところへも分けに行った。その時、銀貨二つを風琴《オルガン》の上に載せた戻《もど》りがけに、私は次郎や三郎のほうを見て、半分|串談《じょうだん》の調子で、
 「天麩羅《てんぷら》の立食《たちぐい》なんか、ごめんだぜ。」
 「とうさん、そんな立食なんかするものか。そこは心得ているから安心しておいでよ。」と次郎は言った。
 楽しい桃の節句の季節は来る、月給にはありつく、やがて新しい住居《すまい》での新しい生活も始められる、その一日は子供らの心を浮き立たせた。末子も大きくなって、もう雛《ひな》いじりでもあるまいというところから、茶の間の床には古い小さな雛と五人|囃子《ばやし》なぞをしるしばかりに飾ってあった。それも子供らの母親がまだ達者《たっしゃ》な時代からの形見《かたみ》として残ったものばかりだった。私が自分の部屋に戻《もど》って障子の切り張りを済ますころには、茶の間のほうで子供らのさかんな笑い声が起こった。お徳のにぎやかな笑い声もその中にまじって聞こえた。
 見ると、次郎は雛壇《ひなだん》の前あたりで、大騒ぎを始めた。暮れの築地《つきじ》小劇場で「子供の日」のあったおりに、たしか「そら豆の煮えるまで」に出て来る役者から見て来たらしい身ぶり、手まねが始まった。次郎はしきりに調子に乗って、手を左右に振りながら茶の間を踊って歩いた。
 「オイ、とうさんが見てるよ。」
 と言って、三郎はそこへ笑いころげた。

 私たちの心はすでに半分今の住居《すまい》を去っていた。
 私は茶の間に集まる子供らから離れて、ひとりで自分の部屋《へや》を歩いてみた。わずかばかりの庭を前にした南向きの障子からは、家じゅうでいちばん静かな光線がさして来ている。東は窓だ。二枚のガラス戸越しに、隣の大屋《おおや》さんの高い塀《へい》と樫《かし》の樹《き》とがこちらを見おろすように立っている。その窓の下には、地下室にでもいるような静かさがある。
 ちょうど三年ばかり前に、五十日あまりも私の寝床が敷きづめに敷いてあったのも、この四畳半の窓の下だ。思いがけない病が五十の坂を越したころの身に起こって来た。私はどっと床についた。その時の私は再び起《た》つこともできまいかと人に心配されたほどで、茶の間に集まる子供らまで一時沈まり返ってしまった。
 どうかすると、子供らのすることは、病んでいる私をいらいらさせた。
 「とうさんをおこらせることが、とうさんのからだにはいちばん悪いんだぜ。それくらいのことがお前たちにわからないのか。」
 それを私が寝ながら言ってみせると、次郎や三郎は頭をかいて、すごすごと障子のかげのほうへ隠れて行ったこともある。
 それからの私はこの部屋に臥《ね》たり起きたりして暮らした。めずらしく気分のよい日が来たあとには、また疲れやすく、眩暈心地《めまいごこち》のするような日が続いた。毎朝の気分がその日その日の健康を予報する晴雨計だった。私の健康も確実に回復するほうに向かって行ったが、いかに言ってもそれが遅緩で、もどかしい思いをさせた。どれほどの用心深さで私はおりおりの暗礁《あんしょう》を乗り越えようと努めて来たかしれない。この病弱な私が、ともかくも住居《すまい》を移そうと思い立つまでにこぎつけた。私は何かこう目に見えないものが群がり起こって来るような心持ちで、本棚《ほんだな》がわりに自分の蔵書のしまってある四畳半の押入れをもあけて見た。いよいよこの家を去ろうと心をきめてからは、押入れの中なぞも、まるで物置きのようになっていた。世界を家とする巡礼者のような心であちこちと提《さ》げ回った古い鞄《かばん》――その外国の旅の形見が、まだそこに残っていた。
 「子供でも大きくなったら。」
 私はそればかりを願って来たようなものだ。あの愛宕下《あたごした》の宿屋のほうで、太郎と次郎の二人《ふたり》だけをそばに置いたころは、まだそれでも自由がきいた。腰巾着《こしぎんちゃく》づきでもなんでも自分の行きたいところへ出かけられた。末子を引き取り、三郎を引き取りするうちに、目には見えなくても降り積もる雪のような重いものが、次第に深くこの私を埋《うず》めた。

 しかし私はひとりで子供を養ってみているうちに、だんだん小さなものの方へ心をひかれるようになって行った。年若い時分には私も子供なぞはどうでもいいと考えた。かえって手足まといだぐらいに考えたこともあった。知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、帰国後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむようになってみると、以前に足手まといのように思ったその自分の考え方を改めるようになった。世はさびしく、時は難い。明日《あす》は、明日は
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