と待ち暮らしてみても、いつまで待ってもそんな明日がやって来そうもない、眼前に見る事柄から起こって来る多くの失望と幻滅の感じとは、いつでも私の心を子供に向けさせた。
 そうは言っても、私が自分のすぐそばにいるものの友だちになれたわけではない。私は今の住居《すまい》に移ってから、三年も子供の大きくなるのを待った。そのころは太郎もまだ中学へ通い、婆やも家に奉公していた。釣《つ》りだ遠足だと言って日曜ごとに次郎もじっとしていなかった時代だ。いったい、次郎はおもしろい子供で、一人《ひとり》で家の内をにぎやかしていた。夕飯後の茶の間に家のものが集まって、電燈の下で話し込む時が来ると、弟や妹の聞きたがる怪談なぞを始めて、夜のふけるのも知らずに、皆をこわがらせたり楽しませたりするのも次郎だ。そのかわり、いたずらもはげしい。私がよく次郎をしかったのは、この子をたしなめようと思ったばかりでなく、一つには婆やと子供らの間を調節したいと思ったからで。太郎びいきの婆やは、何かにつけて「太郎さん、太郎さん」で、それが次郎をいらいらさせた。
 この次郎がいつになく顔色を変えて、私のところへやって来たことがある。
 「わがままだ、わがままだって、どこが、わがままだ。」
 見ると次郎は顔色も青ざめ、少年らしい怒りに震えている。何がそんなにこの子を憤らせたのか、よく思い出せない。しかし、私も黙ってはいられなかったから、
 「お前のあばれ者は研究所でも評判だというじゃないか。」
 「だれが言った――」
 「弥生町《やよいちょう》の奥さんがいらしった時に、なんでもそんな話だったぜ。」
 「知りもしないくせに――」
 次郎が私に向かって、こんなふうに強く出たことは、あとにも先にもない。急に私は自分を反省する気にもなったし、言葉の上の争いになってもつまらないと思って、それぎり口をつぐんでしまった。
 次郎がぷいと表へ出て行ったあとで、太郎は二階の梯子段《はしごだん》を降りて来た。その時、私は太郎をつかまえて、
 「お前はあんまりおとなし過ぎるんだ。お前が一番のにいさんじゃないか。次郎ちゃんに言って聞かせるのも、お前の役じゃないか。」
 太郎はこの側杖《そばづえ》をくうと、持ち前のように口をとがらしたぎり、物も言わないで引き下がってしまった。そういう場合に、私のところへ来て太郎を弁護するのは、いつでも婆やだった。
 しかし、私は子供をしかって置いては、いつでもあとで悔いた。自分ながら、自分の声とも思えないような声の出るにあきれた。私はひとりでくちびるをかんで、仕事もろくろく手につかない。片親の悲しさには、私は子供をしかる父であるばかりでなく、そこへ提《さ》げに出る母をも兼ねなければならなかった。ちょうど三時の菓子でも出す時が来ると、一人《ひとり》で二役を兼ねる俳優のように、私は母のほうに早がわりして、茶の間の火鉢《ひばち》のそばへ盆を並べた。次郎の好きな水菓子なぞを載せて出した。
 「さあ、次郎ちゃんもおあがり。」
 すると、次郎はしぶしぶそれを食って、やがてきげんを直すのであった。
 私の四人の子供の中で、三郎は太郎と三つちがい、次郎とは一つちがいの兄弟《きょうだい》にあたる。三郎は次郎のあばれ屋ともちがい、また別の意味で、よく私のほうへ突きかかって来た。何をこしらえて食わせ、何を買って来てあてがっても、この子はまだ物足りないような顔ばかりを見せた。私の姉の家のほうから帰って来たこの子は、容易に胸を開こうとしなかったのである。上に二人《ふたり》も兄があって絶えず頭を押えられることも、三郎を不平にしたらしい。それに、次郎びいきのお徳が婆やにかわって私の家へ奉公に来るようになってからは、今度は三郎が納まらない。ちょうど婆やの太郎びいきで、とかく次郎が納まらなかったように。
 「三ちゃん、人をつねっちゃいやですよ。ひどいことをするのねえ、この人は。」
 「なんだ。なんにもしやしないじゃないか。ちょっとさわったばかりじゃないか――」
 お徳と三郎の間には、こんな小ぜり合いが絶えなかちった。
 「とうさんはお前たちを悪くするつもりでいるんじゃないよ。お前たちをよくするつもりで育てているんだよ。かあさんでも生きててごらん、どうして言うことをきかないような子供は、よっぽどひどい目にあうんだぜ――あのかあさんは気が短かかったからね。」
 それを私は子供らに言い聞かせた。あまり三郎が他人行儀なのを見ると、時には私は思い切り打ち懲らそうと考えたこともあった。ところが、ちいさな時分から自分のそばに置いた太郎や次郎を打ち懲らすことはできても、十年|他《よそ》に預けて置いた三郎に手を下すことは、どうしてもできなかった。ある日、私は自分の忿《いか》りを制《おさ》えきれないことがあって、今の住居《すまい》の玄関のところで、思わずそこへやって来た三郎を打った。不思議にも、その日からの三郎はかえって私になじむようになって来た。その時も私は自分の手荒な仕打ちをあとで侮いはしたが。
 「十年|他《よそ》へ行っていたものは、とうさんの家へ帰って来るまでに、どうしたってまた十年はかかる。」
 私はそれを家のものに言ってみせて、よく嘆息した。
 私たちが住み慣れた家の二階は東北が廊下になっている。窓が二つある。その一つからは、小高い石垣《いしがき》と板塀《いたべい》とを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行った。遠い郷里のほうの木曽川《きそがわ》の音や少年時代の友だちのことなぞを思い出し顔に、その窓のところでしきりに鶯《うぐいす》のなき声のまねを試みた。
 「うまいもんだなあ。とても鶯《うぐいす》の名人だ。」
 三郎は階下の台所に来て、そこに働いているお徳にまで自慢して聞かせた。
 ある日、この三郎が私のところへ来て言った。
 「とうさん、僕の鶯《うぐいす》をきいた? 僕がホウヽホケキョとやると、隣の家のほうでもホウヽホケキョとやる。僕は隣の家に鶯が飼ってあるのかと思った。それほど僕もうまくなったかなあと思った。ところがねえ、本物の鶯が僕に調子を合わせていると思ったのは、大間違いサ。それが隣の家に泊まっている大学生サ。」
 何かしら常に不満で、常にひとりぼっちで、自分のことしか考えないような顔つきをしている三郎が、そんな鶯《うぐいす》のまねなぞを思いついて、寂しい少年の日をわずかに慰めているのか。そう思うと、私はこの子供を笑えなかった。
 「かあさんさえ達者《たっしゃ》でいたら、こんな思いを子供にさせなくとも済んだのだ。もっと子供も自然に育つのだ。」
 と、私も考えずにはいられなかった。
 私が地下室にたとえてみた自分の部屋《へや》の障子へは、町の響きが遠く伝わって来た。私はそれを植木坂の上のほうにも、浅い谷一つ隔てた狸穴《まみあな》の坂のほうにも聞きつけた。私たちの住む家は西側の塀《へい》を境に、ある邸《やしき》つづきの抜け道に接していて、小高い石垣《いしがき》の上を通る人の足音や、いろいろな物売りの声がそこにも起こった。どこの石垣のすみで鳴くとも知れないような、ほそぼそとした地虫《じむし》の声も耳にはいる。私は庭に向いた四畳半の縁先へ鋏《はさみ》を持ち出して、よく延びやすい自分の爪《つめ》を切った。
 どうかすると、私は子供と一緒になって遊ぶような心も失ってしまい、自分の狭い四畳半に隠れ、庭の草木を友として、わずかにひとりを慰めようとした。子供は到底母親だけのものか、父としての自分は偶然に子供の内を通り過ぎる旅人に過ぎないのか――そんな嘆息が、時には自分を憂鬱《ゆううつ》にした。そのたびに気を取り直して、また私は子供を護《まも》ろうとする心に帰って行った。

 安い思いもなしに、移り行く世相をながめながら、ひとりでじっと子供を養って来た心地《ここち》はなかった。しかし子供はそんな私に頓着《とんじゃく》していなかったように見える。
 七年も見ているうちには、みんなの変わって行くにも驚く。震災の来る前の年あたりには太郎はすでに私のそばにいなかった。この子は十八の歳《とし》に中学を辞して、私の郷里の山地のほうで農業の見習いを始めていた。これは私の勧めによることだが、太郎もすっかりその気になって、長いしたくに取りかかった。ラケットを鍬《くわ》に代えてからの太郎は、学校時代よりもずっと元気づいて来て、翌年あたりにはもう七貫目ほどの桑を背負いうるような若者であった。
 次郎と三郎も変わって来た。私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂《ふろ》を浴びに、鼠坂《ねずみざか》から森元町《もりもとちょう》の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟《きょうだい》二人《ふたり》とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原《おだわら》の海岸まで保養を思い立ったこともある。その時も次郎は先に立って、弟と一緒に、小田原の停車場まで私を送りに来た。
 やがて大地震だ。私たちは引き続く大きな異変の渦《うず》の中にいた。私が自分のそばにいる兄妹《きょうだい》三人の子供の性質をしみじみ考えるようになったのも、早川《はやかわ》賢《けん》というような思いがけない人の名を三郎の口から聞きつけるようになったのも、そのころからだ。
 毎日のような三郎の「早川賢、早川賢」は家のものを悩ました。きのうは何十人の負傷者がこの坂の上をかつがれて通ったとか、きょうは焼け跡へ焼け跡へと歩いて行く人たちが舞い上がる土ぼこりの中に続いたとか、そういう混雑がやや沈まって行ったころに、幾万もの男や女の墓地のような焼け跡から、三つの疑問の死骸《しがい》が暗い井戸の中に見いだされたという驚くべきうわさが伝わった。
 「あゝ――早川賢もついに死んでしまったか。」
 この三郎の感傷的な調子には受け売りらしいところもないではなかったが、まだ子供だ子供だとばかり思っていたものがもはやこんなことを言うようになったかと考えて、むしろ私にはこの子の早熟が気にかかった。
 震災以来、しばらく休みの姿であった洋画の研究所へも、またポツポツ研究生の集まって行くころであった。そこから三郎が目を光らせて帰って来るたびにいつでも同じ人のうわさをした。
 「僕らの研究所にはおもしろい人がいるよ。『早川賢だけは、生かして置きたかったねえ』――だとサ。」
 無邪気な三郎の顔をながめていると、私はそう思った。どれほどの冷たい風が毎日この子の通う研究所あたりまでも吹き回している事かと。私はまた、そう思った。あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁《しょうそう》が、右も左もまだほんとうにはよくわからない三郎のような少年のところまでもやって来たかと。私は屋外《そと》からいろいろなことを聞いて来る三郎を見るたびに、ちょうど強い雨にでもぬれながら帰って来る自分の子供を見る気がした。
 私たちの家では、坂の下の往来への登り口にあたる石段のそばの塀《へい》のところに、大きな郵便箱を出してある。毎朝の新聞はそれで配達を受けることにしてある。取り出して来て見ると、一日として何か起こっていない日はなかった。あの早川賢が横死《おうし》を遂げた際に、同じ運命を共にさせられたという不幸な少年一太のことなぞも、さかんに書き立ててあった。またかと思うような号外売りがこの町の界隈《かいわい》へも鈴を振り立てながら走ってやって来て、大げさな声で、そこいらに不安をまきちらして行くだけでも、私たちの神経がとがらずにはいられなかった。私は、年もまだ若く心も柔らかい子供らの目から、殺人、強盗、放火、男女の情死、官公吏の腐敗、その他胸もふさがるような記事で満たされた毎日の新聞を隠したかった。あいにくと、世にもまれに見る可憐《かれん》な少年の写真が、ある日の紙面の一隅《いちぐう》に大きく掲げてあった。評判の一太だ。美しい少年の生前の面影《おもかげ》はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。
 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞
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