は、一度ある題目を捉えると容易にそれを放擲して了うという質《たち》の人では無い、何度も何度も心の中で繰り返されて、それが筆に上る度に、段々作物の味《あじわい》が深くなってゆくという感じがする。『富嶽の詩神を懐ふ』という一篇なぞは、矢張り、『蓬莱曲』の後に書いたものだが、よく読んで見ると、作と作との相連絡している処が解るように思う。一体北村君の書いたものは、死ぬ三四年前あたりから、急に光って来たような処があって、一呼吸《ひといき》にああいう処へ躍り入ったような風に見えたが、その残して置いた反古なぞを見ると、透谷集の中にある面白い深味のあるものが、皆ずっと以前の幼稚なものから、出発して来ていることが解った。その反古は今ではもうどうなったか解らないが、でもこう葉に葉を重ねて、同じ力で貫いて行ったというような処が、あの人の面白味のあった処だ。
北村君の文学生活は種々な試みを遣《や》って見た、準備時代から始まったものではあるが、真個《ほんと》に自分を出して来るようになったのは、『蓬莱曲』を公けにした頃からであろう。当時巌本善治氏の主宰していた女学雑誌は、婦人雑誌ではあったが、然し文学宗教其他種
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