るが、同時代にいた、しっかりした友達の方に、却《かえ》って教えられた事は多いのである。
北村君が亡くなった後で、京橋鎗屋町の煙草屋の二階(北村君の阿母《おっか》さんは煙草店を出して居られた)へ上って、残して置いて行ったものを調べた事があった。その時細君が取り出して来たいくつかの葛籠《つづら》を開けたら、種々反古やら、書き掛けたものやらが、部屋中一杯になるほど出て来た。北村君はどんな破って了いたいようなものでも、自分の書いたものは、皆大切に、細君に仕舞わせて置いた。そんな一寸した事にも北村君の人となりというものは出ていると思う。その中には小説の書き掛けがあったり、種々な劇詩の計画を書いたものがあったり、その題目などは二度目に版にした透谷全集の端に序文の形で書きつけて置いたが、大部分はまあ、遺稿として発表する事を見合わした方が可いと思った位で、戯曲の断片位しか、残った草稿としては世に出さなかった。然しその古い反古を見ると、北村君の歩いて行った途の跡が付いているような気がした。例を挙げて見ると『蓬莱曲』を書く以前に『楚囚詩』というものを書いている。あれなぞをこう比べて見ると、北村君の行き方
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