こには兼吉も桑作も膝《ひざ》をかき合わせている。半蔵は婆さんから受けた盃を飲みほして、それを兼吉にさし、さらに桑作にもさした。
「そりゃ、お前、一度でも吾家《うち》の敷居をまたいだものへは、何か一品ずつ形見が残して置いてあったよ。そういうものがちゃんと用意してあったよ。」と半蔵が言って見せる。
「大旦那はそういう人よなし。」
とお虎婆さんも上きげんで、わざわざその日のために黒々と染めて来たらしい鉄漿《かね》をつけた歯を見せて笑った。この酒好きな婆さんは膳の上に盃を置いた手で、自分の顔をなで回しながら、大旦那の時分の忘れられないことを繰り返した。
次第に半蔵が重ねた盃の酒は顔にも手にも発して来た。その晩は彼もめずらしく酔った。客一同へ蕎麦が出て、ぽつぽつ席を立ちかけるものもあるころには、物を見る彼の目も朦朧《もうろう》としていた。しまいには奥の間の廊下の外にすべり出し、そこに酔いつぶれていて、勝重の介抱に来てくれたのをわずかに覚えているほど酔った。
[#改頁]
第七章
一
例の万国公法の意気で、新時代を迎えるに急な新政府がこれまでの旧《ふる》い暦をも廃
前へ
次へ
全419ページ中388ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング