すが、宅じゃ帰ることを忘れましたようですよ。」
 そんなことを言って、京には美しい人も多いと聞くなぞと遠回しににおわせ、夫恋《つまこ》う思いを隠しかねている友人の妻が顔をながめると、半蔵はわずかの見舞いの言葉をそこに残して置いて来るだけでは済まされなかった。供の平兵衛が催促でもしなかったら、彼は笠《かさ》を手にし草鞋《わらじ》をはいたまま、その門口をそこそこに辞し去るにも忍びなかった。

       三

 さらに落合の宿まで帰って来ると、そこには半蔵が弟子《でし》の勝重《かつしげ》の家がある。過ぐる年月の間、この落合から湯舟沢、山口なぞの村里へかけて、彼が学問の手引きをしたものも少なくなかったが、その中でも彼は勝重ほどの末頼もしいものを他に見いださなかった。その親しみに加えて、勝重の父親、儀十郎はまだ達者《たっしゃ》でいるし、あの昔気質《むかしかたぎ》な年寄役らしい人は地方の事情にも明るいので、先月二十九日の出来事を確かめたいと思う半蔵には、その家を訪《たず》ねたらいろいろなことがもっとよくわかろうと考えられた。
「おゝお師匠さまだ。」
 という声がして、勝重がまず稲葉屋《いなばや
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