に振る舞ったほどの凶年であったことなぞが、旅の行く先に思い出された。


 時はあだかも徳川将軍の処分について諸侯|貢士《こうし》の意見を徴せられたという後のころにあたる。薩長《さっちょう》人士の中には慶喜を殺せとの意見を抱《いだ》くものも少なくないので、このことはいろいろな意味で当時の人の心に深い刺激をあたえた。遠く猪苗代《いなわしろ》の湖を渡り、何百里の道を往復し、多年慶喜の背後《うしろ》にあって京都の守護をもって自ら任じた会津《あいづ》武士が、その正反対を西の諸藩に見いだしたのも決して偶然ではなかった。伏見鳥羽《ふしみとば》の戦さに敗れた彼らは仙台藩《せんだいはん》等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷を毀《こぼ》たれるのいわれなきことを弁疏《べんそ》し、退いてその郷土を死守するような道をたどり始めていた。強大な東北諸侯の同盟が形造られて行ったのもこの際である。
 こんな東北の形勢は尾州藩の活動を促して、旧江戸城の保護、関東方面への出兵などばかりでなく、越後口《えちごぐち》への進発ともなった。半蔵は名古屋まで行ってそれらの事情を胸にまとめることができた。武装解除を肯《がえん》じな
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