て見せて、例の床の上にすわり直していた。将軍家の没落もいよいよ事実となってあらわれて来たころは、この山家ではもはや小草山の口明けの季節を迎えていた。
「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい。」とまた吉左衛門が言った。
「そうですよ。」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと言いますよ。屋敷屋敷へは兵隊が入り込む、落ちた花の上へは大砲をひき込む――殺風景なものでしたろうね。」
「まあ、おれのような昔者にはなんとも言って見ようもない。」
 その時、半蔵はふところにして行った覚え書きを取り出した。江戸開城に関する部分なぞを父の枕《まくら》もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩《さつま》や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、父の耳をそばだてさせた。
 その中には、開城の前夜に芝《しば》増上寺《ぞうじょうじ》山内の大総督府参謀西郷氏の宿陣で種々《さまざま》な軍議のあったことも出て来た。城を請け取る刻限も、翌日の早朝五ツ時と定められた。万一朝廷の命令に抵抗するものがあるなら討《う》ち
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