かりの時だ。街道に添うて旅人に道を教える御嶽《おんたけ》登山口、路傍に建てられてある高札場なぞを右に見て、福島の西の町はずれにあたる八沢というところまで歩いて行った時だ。
「青山さん、馬籠の方へ今お帰り。」
 ときく人は、木曾風俗の軽袗《かるさん》ばきで、猟師筒を肩にかけている。屋敷町でない方に住む福島の町家の人で、大脇自笑《おおわきじしょう》について学んだこともある野口秀作というものだ。半蔵は別にその人と深い交際はないが、彼の知る名古屋藩士で田中|寅三郎《とらさぶろう》、丹羽淳太郎《にわじゅんたろう》なぞの少壮有為な人たちの名はその人の口から出ることもある。あうたびに先方から慣れ慣れしく声をかけるのもその人だ。
「どれ、わたしも御一緒にそこまで行こう。」とまた秀作は歩き歩き半蔵に言った。「青山さん、あなたがお見えになったことも、お役所へ出頭したことも、きのうのうちに町じゅうへ知れています。えゝえゝ、そりゃもう早いものです。狭い谷ですからね。ここはあなた、うっかり咳《せき》ばらいもできないようなところですよ。福島はそういうところですよ。ほんとに――この谷も、こんなことじゃしかたがない。
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