彼はそれを木曾川の方から来るものと思い、石を越して流れる水瀬の音とばかり思ったが、よく聞いて見ると、町へ来る夜の雨の音のようでもある。その音は、まさに測りがたい運命に直面しているような木曾谷の支配者の方へ彼の心を誘った。
もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江《おうみ》の湖水のほとりの位置に、三十五万石を領する井伊氏の居城のそびえ立つと同じ意味のもので、幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていたのだ。この関所を預かる山村氏は最初徳川直属の代官であった。それは山村氏の祖先が徳川台徳院を関ヶ原の戦場に導いて戦功を立てた慶長年代以来の古い歴史にもとづく。後に木曾地方は名古屋の管轄に移って、山村氏はさらに尾州の代官を承るようになったが、ここに住む福島の家中衆が徳川直属時代の誇りと長い間に養い来たった山嶽的《さんがくてき》な気風とは、事ごとに大領主の権威をもって臨んで来る尾州藩の役人たちと相いれないものがあった。この暗闘反目は決して一朝一夕に生まれて来たもの
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