のかみさんがくんで出してくれる熱いネブ茶を飲んで見ている間に、なかなか人の口に戸はたてられないことを知った。
「おれは葵《あおい》の紋を見ても、涙がこぼれて来るよ。」
「今はそんな時世じゃねえぞ。」
 二人の客の言い争う声だ。まっかになるほど炉の火に顔をあぶった男と、手製の竹の灰ならしで囲炉裏の灰をかきならしている男とが、やかましいお触れもおかまいなしにそんなことを言い合っている。
「なあに、こんな新政府はいつひっくりかえるか知れたもんじゃないさ。」
「そんなら君は、どっちの人間だい。」
「うん――おれは勤王で、佐幕だ。」
 時代の悩みを語る声は、そんな一夜の客の多く集まる囲炉裏ばたの片すみにも隠れていた。


 地方《じかた》御役所での役人たちが言葉のはじも気にかかって、翌朝の沙汰《さた》を聞くまでは半蔵も安心しなかった。その晩、半蔵は旅籠屋らしい行燈《あんどん》のかげに時を送っていた。供に連れて来た平兵衛は、どこに置いても邪魔にならないような男だ。馬籠あたりに比べると、ここは陽気もおくれている。昼間は騒がしくても、夜になるとさびしい河《かわ》から来るらしい音が、半蔵の耳にはいった。
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