が十数年も尾張藩の政事にあずかったころの長閑《のどか》な城下町ではもとよりない。
町々の警戒もにわかに厳重になった。怪しい者の宿泊は一夜たりとも許されなかった。旅籠屋をさして帰って行く半蔵らのそばには、昼夜の差別もないように街道を急いで来て、また雪を蹴《け》って出て行く早駕籠《はやかご》もある。
流言の取り締まりもやかましい。そのお達しは奉行所よりとして、この宿場らしい町中の旅籠屋にまで回って来ている。当今の時勢について、かれこれの品評を言い触らす輩《やから》があっては、諸藩の人気にもかかわるから、右ようのことのないようにとくと心得よ、酒興の上の議論はもちろん、たとい女子供に至るまで茶呑《ちゃの》み噺《ばなし》にてもかれこれのうわさは一切いたすまいぞ、とのお触れだ。半蔵が泊まりつけの宿の門口をはいって、土地柄らしく掛けてある諸|講中《こうじゅう》の下げ札なぞの目につくところから、土間づたいに広い囲炉裏《いろり》ばたへ上がって見た時は、さかんに松薪《まつまき》の燃える香気《におい》が彼の鼻の先へ来た。二人ばかりの泊まり客がそこに話し込んでいる。しばらく彼は炉の火にからだをあたため、宿
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