かくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧《ふる》い交わりを温《あたた》め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。
 この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、
「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした。」
 その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇《りょうあん》の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道|先鋒《せんぽう》兼|鎮撫《ちんぶ》総督の一行が美濃《みの》を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓《かぐう》を畳《たた》み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。
「暮田さん、あなたからもお願いしてください。」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど。」
「なあに、そこ
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