なまねを演じさせるのは非礼であると見えたものであろう、とケンペルは書き残している。
その翌年、西暦千六百九十二年(元禄《げんろく》五年)に、今一度オランダ使節は江戸へ参府することになった。そこでケンペルもまたその一行に加わって内地を旅する再度の機会をとらえた。一行は三月はじめに長崎の出島を出発し、船で兵庫に着いて、大坂奉行をも京都所司代をも訪《たず》ねた。この再度の内地の旅は日本の自然や社会を観察する上に一層の便宜をケンペルに与えたのである。大坂奉行の屋敷では、ケンペルはその奉行から十年来の宿痾《しゅくあ》に悩まされていまだに全快しないでいる家人のあることを告げられ、どうしたらそれを治療することができようかと尋ねられた。ともかくも彼は診断することを望んだところ、奉行がそれをさえぎって、病は身体の中の秘密な場所に属するからと言って、くわしくその症状を告げ、それによってよろしく判断し、施薬せられたいとのことであった。そこで彼は求められるとおりにしてやったこともある。その大坂奉行は彼らが異国の風俗をめずらしがり、帽子を手に取って打ちかえしながめるやら、上衣を脱がせて見るやらして、横文字
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