の香がその店先までにおって来ている。
久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗《ちゃわん》の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶《せんちゃ》を客にもすすめ、自分でも飲みながら、
「館松《たてまつ》さんは、もう錦小路《にしきこうじ》(鉄胤の寓居《ぐうきょ》をさす)をお訪《たず》ねでございましたか。」
こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻《もど》って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。
隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。
「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう。」
「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから。」と正香が言って見
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