那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師|鉄胤《かねたね》のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。
 正香としては、このよろこばしい音信《おとずれ》を伊勢久の亭主《ていしゅ》にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋|久兵衛《きゅうべえ》の名は縫助もよく聞いて知っている。
「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ。」
 と言って、正香は連れを誘った。


 御染物所。伊勢屋とした紺暖簾《こんのれん》の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰
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