高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子《ちょうばごうし》のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。
「これは。これは。」
 正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。
「さあ、どうぞ。」
 とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団《ざぶとん》などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。
 久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱《いだ》き、和歌をも能《よ》くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋《あっせん》紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那|伴野《ともの》村の松尾多勢子《まつおたせこ》、つづいて上京した美濃中津川《みのなかつがわ》の浅見景蔵《あさみけいぞう》、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋《わらじ》をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛《じゅらく》を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。
「この正月になりましてから、伊那か
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