屋《へや》の方へ子供を見に行ったあとでも、半蔵は囲炉裏ばたを離れなかった。彼はひとり周囲を見回した。遠い先祖から伝えられた家業を手がけて見ると、父吉左衛門にしても、祖父半六にしても、よくこのわずらわしい仕事を処理して来たと彼には思わるるほどだ。本陣とは何をしなければならないところか。これは屋敷の構造が何よりもよくその本来の成り立ちを語っている。公用兼軍用の旅舎と言ってしまえばそれまでだが、ここには諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関がなければならない。長い鎗《やり》を掛けるところがなければならない。馬をつなぐ厩《うまや》がなければならない。消防用の水桶《みずおけ》、夜間警備の高張《たかはり》の用意がなければならない。いざと言えば裏口へ抜けられる厳重な後方の設備もなければならない。本陣という言葉が示しているように、これは古い陣屋の意匠である。二百何十年の泰平の夢は、多くの武家を変え、その周囲を変えたけれども、しかしそれらの人たちを待つ設備と形式とは昔のままこうした屋敷に残っている。食器から寝道具までを携帯する大名の旅は、おそらく戦時を忘れまいとする往昔《むかし》の武人が行軍の習慣の保存さ
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